「お前、この女を預かれ」
いきなり上司が自宅に押しかけ、愛人の世話をするよう命じてきた……としたら、あなたはどうしますか?
「いやいや、普通そんなことありえないでしょ」と多くの方は思いますよね。筆者もそう思います。
しかし世の中は広いもので、そんなことを命じられた者がおりました。
彼の名は伏見広綱(ふしみ ひろつな)。源頼朝(みなもとの よりとも)に仕えた右筆(ゆうひつ。書記、秘書的役職)です。
今回は頼朝の愛人を預からされ、それが元で災難に見舞われた伏見広綱のエピソードを紹介したいと思います。
命じられた初仕事はラブレターの執筆?
伏見広綱は生年不詳、遠江国佐野郡掛河(現:静岡県掛川市)の豪族で、藤原氏の末裔でした。
頼朝に仕えたのは寿永元年(1182年)5月12日、遠江国を支配していた安田三郎義定(やすだ さぶろうよしさだ。武田信義の叔父)が広綱を推薦します。
伏見冠者藤原廣綱、武衛に初參す。
※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)5月12日条
是、右筆也。京都に馴む者、御尋有るに依て、安田三郎之を擧し申被る。日來、遠江國懸河邊に住むと云々。
義定「この伏見冠者(~かじゃ。元服した者の通称)は文筆や京のことなど諸般通じておりますゆえ、きっとお役に立ちましょう」
広綱「若輩ながら鎌倉殿が御為、粉骨砕身ご奉公いたしまする」
頼朝「おぉ、それは頼もしい……ではさっそく」
……という訳で、頼朝の右筆となった広綱の初仕事?は艶書(えんしょ/つやがき。ラブレター)の代筆&配達でした。
頼朝「亡き兄者(源義平)の正室・祥寿姫(しょうじゅひめ)を口説き落とすのじゃ!」
しかし祥寿姫は政子(まさこ。頼朝の正室)の嫉妬を恐れ、頼朝のアプローチを拒絶します。しかも義理とは言え姉弟関係ですから、当然と言えば当然でしょう。
広綱「脈なしですね。諦めた方がようございますな」
頼朝「何の、愛さえあれば義姉弟の関係だって……」
広綱「だから向こうにはその『愛』がないんですってば……」
頼朝「いぃや違うね。そなたの文才が足りないせいじゃ!」
諦めない頼朝は姫の父・新田太郎義重(にった たろうよししげ)にも根回しをしますが、義重は慌てて姫を師六郎(もろの ろくろう)に嫁がせてしまいました。
新田冠者義重主御氣色を蒙る。
※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)7月14日条
是、彼の息女者惡源太殿〔武衛の舎兄〕後室也。而るに武衛此の間、伏見冠者廣綱を以て、潜に御艶書を通ぜ被ると雖も、更に御許容の氣無き之間、直に父主に仰せ被る之處、義重元自り事に於て思慮を廻らすに依て、御臺所の御後聞を憚り、俄に以て件の女子於師六郎ー ーに嫁令むる之故也。
頼朝「おのれ新田め……絶対に許さん!」
広綱「……やれやれ」
怒り狂う頼朝はその後も新田を冷遇したのでした。せめて師六郎と再婚した祥寿姫が、幸せであったことを願うばかりです。
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我が愛人・亀の前を世話せよ……そなたの自己負担で
そんな広綱ですが、他人の心配ばかりしていられません。
頼朝「おう伏見の……この女を預かれ」
頼朝が連れて来たのは、伊豆の流人時代から寵愛していた亀の前(かめのまえ)。これまで政子にバレないよう中原光家(なかはら みついえ)の館に匿われていたのですが、頼朝がワガママを言い出したのです。
頼朝「あそこ(光家の館)は陸の孤島状態だから見つかりにくくていいんだけど、通いにくくてかなわぬ!」
という訳で、広綱の館に白羽の矢が立てられました。が、ここじゃ流石にバレちゃうんじゃないでしょうか……。
頼朝「うるさい!いちいち舟に乗り換えるのは面倒なんじゃ。いいから預かれ!ちょくちょく来るからな!」
こうなったらもう逆らえず、広綱はしぶしぶ亀の前を預かることに。彼女の滞在費用については、基本的に広綱の自己負担と考えられます。
広綱「あの、ちょっと家計が苦しいのですが……」
頼朝「そなたの事情も分からんではないが、もし特別手当なんかつけてみろ。使途不明支出を指摘されて浮気がバレてしまうではないか」
広綱「そんな……」
頼朝「まぁ我慢せぇ。何とか少しでも捻出できるよう取り計らわせるゆえ」
自宅に上司の愛人を連れ込まれ、その生活費用まで負担させられる……まったくたまったモンじゃありませんね。
しかし、彼の災難はこれだけに留まりませんでした。
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館を破壊され、あげく流刑に処せられる
政子「三郎……やっておしまい!」
牧三郎宗親「ははあ!」
ついに頼朝の浮気が政子にバレてしまい、亀の前を匿っていた咎によって広綱の館は破壊されてしまいます。
此の間、御寵女〔龜前〕伏見冠者廣綱が飯嶋の家于住む也。
※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)11月10日条
而るに此の事露顯し、御臺所殊に憤ら令め給ふ。是、北條殿室家の牧御方、密々に之を申さ令め給ふの故也。
仍て今日、牧三郎宗親に仰せて、廣綱之宅を破却し、頗る耻辱に及ぶ。
廣綱彼の人を相伴ひ奉り、希有にし而遁れ出で大多和五郎義久の鐙摺の宅に到ると云々。
広綱と亀の前たちは命からがら館を脱出、鐙摺(あぶずり。現:神奈川県横須賀市)にある大多和五郎義久(おおたわ ごろうよしひさ。三浦義澄の弟)の館まで逃げ延びました。
広綱「いやぁまったくえらい目に遭うたわい……」
その2日後。大多和義久の館を視察に来た頼朝は、激怒して牧宗親の髻(もとどり。結い髪の根元)を切り落とし、大変な辱めを与えます。
宗親は政子の父・北条時政(ほうじょう ときまさ)の舅。身内を辱められたことに激怒した時政は、一族を連れて鎌倉を去ってしまいました。
けっきょく頼朝は時政ら北条一族と和解するのですが、浮気された怒りの収まらない政子は、頼朝に迫って広綱を流罪に処させます。
伏見冠者廣綱、遠江國に配さる。是、御臺所の御憤りに依て也。
※『吾妻鏡』寿永元年(1182年)12月16日条
愛人をむりやり預からされて館を破壊され、その上に流罪とは……まったく理不尽千万と言うよりありません。
せめてもの救いは、配流先が故郷の遠江国であること。流罪と言っても実際は単に帰郷しただけなのでしょう。
しかし怒り狂う政子の手前、誰かを厳罰に処す形をとらないと赦してもらえなかったものと考えられます。
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終わりに
かくして広綱は『吾妻鏡』から姿を消し、他の史料にも登場しないことから、故郷で静かに暮らしたのでしょう。
寿永元年(1182年)5月に仕官したと思ったら無理筋なラブレターを届けさせられ(さぞ嫌な顔をされたことでしょう)、愛人を自宅で預からされ、自宅を破壊され……。
挙げ句12月、八つ当たりによって辞めさせられるだけでなく、最後は濡れ衣まで着せられてしまった伏見広綱。
たった7ヶ月の鎌倉づとめは、彼にとって実にトラブル続きで、気の休まる暇もなかったことでしょう。
広綱がその後どのような余生を送ったのか、記録がないため想像するよりないものの、せめて安らかであって欲しいと願うばかりです。
※参考文献:
- 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年11月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人と本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
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