源実朝(みなもとの さねとも)亡き後、幼君・三寅(みとら。藤原頼経)を迎え鎌倉をほしいままにする執権・北条義時(ほうじょう よしとき)。
それを苦々しく思っていた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう。第82代)は承久3年(1221年)、ついに義時討伐の兵を挙げました。
これが後世に伝わる承久の乱。武家政権の存亡を賭けた戦いが幕を開けます。官軍(朝廷の軍勢)を迎え撃つのは義時の嫡男・北条泰時(やすとき)。鎌倉の命運を双肩に担い、総大将としてどんな戦いを演じたのでしょうか。
今回は南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記』より、承久の乱に関する記事を紹介。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習にどうぞ。
両院召軍勢(両院が軍勢を召されること)
……承久三年に、当今にはかに御位を退らせ給ふて新院とそ申奉ける。土御門をは中院と申せし也。一院と新院と御心を一にそ思食けるは、
「頼朝権柄を取て天下を恣にせし、ヽかも法皇も御力及はせ給はめとそ聞へし。其子も皆亡ぬれ共猶左京大夫義時かれか家人の身とそ勅定にも随す混に不義をふるまふ事寔に王法も盡ぬるか」
と思召煩せ給ひて、遠は法皇の宸襟を休め、近は万民の患し助けさせ給はんか為、関東を滅さるへしとの事定ける……。
※原文がカタカナ、改行&句読点&記号なし。ここでは読みやすく平仮名に直し、適宜改行などしています。以下同じ。
※『保暦間記』両院召軍勢より
【意訳】承久3年4月20日、今の天皇陛下(順徳天皇。第84代)が俄かに譲位され、新院と呼ばれるようになった。先代の土御門院(第83代)は中院と呼ばれる。一院(後鳥羽上皇)は新院と心一つに思い煩われた。
「かつて源頼朝(よりとも)が権力を握って天下の政治をほしいままにし、後白河法皇(ごしらかわほうおう。第77代)ですらお力が及ばなかったという。その語、頼朝とその子らもみんな死んだのに、義時がなおも権力を握って不届きにも勅諚に逆らっている。本当に天下の秩序は失われてしまったのか」
そこで天下をあるべき姿に戻すため、関東(鎌倉幕府)を滅ぼそうと決めたのであった。
……中院「時未至らぬ事也けれは、いかヽは候ぬらん」と随分雖諫給(いさめたもうといえども)、両院聴させ給はす。ひしひしと思召立て諸国の軍勢を召るヽに、畿内近国皆馳参る……。
※『保暦間記』両院召軍勢より
【意訳】しかし中院(土御門院)は天下万民の戦災を憂えて「いまだ時いたらぬ事なりければ、いかがは候わぬらん(時期尚早に過ぎます。いかがなものでしょうか≒お考え直し下さい)」と諫言したものの、後鳥羽上皇と順徳院は聞き入れなかった。そして諸国の軍勢を召集し、畿内近国の武士たちが続々と参集したのであった。
……近習の月卿雲客興ある事にいさみ會り、既五月十五日、関東代官伊賀判官藤原光季(武蔵守秀郷後胤伊賀守朝光息)押寄て討れぬ。
民部少輔大江親広法師(法各蓮阿大膳大夫広元男)、是も関東の代官として在京したりけるを、院へ召れて参けり……。
※『保暦間記』両院召軍勢より
【意訳】続々と参集する武士たちに盛り上がった月卿雲客(げっけいうんかく。公卿・殿上人ら)は、さっそく5月15日に京都守護の伊賀光季(いが みつすえ)を攻め滅ぼさせた。
一方、同じく京都守護であった大江親広(おおえ ちかひろ。大江広元の子)は内裏へ召し出され、断ることもできず官軍に与したのである。
……関東へもさるへき侍共の方へ義時討へき旨院宣を成下しける程に、鎌倉に此事聞へて二位殿義時宗徒の侍を呼寄、
「三代将軍の恩寵を忘れすは今度忠義を致さるへしや」
と仰けれは、侍共「故殿の跡を空成し事争歎さるへき。今度に於ては身命をすて、忠懃を致すへし」と異口同音に申す……。
※『保暦間記』両院召軍勢より
【意訳】関東の有力御家人たちにも「義時を討て」と院宣が下され、鎌倉にもこのことが伝わった。二位殿(尼御台・政子)は義時はじめ御家人たちを呼びよせて演説する。
「三代将軍(源頼朝・源頼家・源実朝)の恩義を忘れぬ者は、今こそ忠義を果たしなさい!」
御家人たちはこれを聞いて奮い立つのであった。
「亡き鎌倉殿のご遺業を空しくしては、嘆かずにおれぬ。此度の戦さは身命を捨てて忠義を尽くすべし!」
泰時入洛、両院移両国(泰時入洛し、両院を両国へ移すこと)
……さては時刻をうつしては悪かるへしとて、五月二日(※)より當手の勢を三手に分て上せらる。
※『保暦間記』泰時入洛、両院移両国より
東海道は義時か嫡子武蔵守泰時、北陸道は二男遠江守朝時、東山道は相模守時房(義時舎弟)を大将とそ、都合其勢二十萬八千騎打立けるか、近江国にては何れも一手に成り、六月十三日宇治勢多より京へそ入にける……。
(※)原文ママ、実際には5月22日。
【意訳】さて戦うと決めたらグズグズしてはいられない。5月22日から軍勢を三手に分けて上洛させた。
東海道(太平洋側)の大将は義時の嫡男・北条泰時。北陸道(日本海側)の大将は、同じく次男の北条朝時(ともとき)。東山道(本州中央ルート)の大将は、義時の弟である北条時房(ときふさ)。
総勢208,000余騎が近江国(現:滋賀県)で一つに合流。6月13日に宇治および勢多(瀬田)より京都へ攻め込んだのであった。
……都には院の近習の人々西国畿内の勢を以て防せ給ふ。
※『保暦間記』泰時入洛、両院移両国より
大将軍は甲斐宰相中将とこそ聞はけれ、され共泰時大勢にて佐々木四郎左衛門源信綱先陣とそ宇治河を渡し、合戦度々にそ十四日京方打破し、散々に成敵対ふに及す……。
【意訳】京都では、後鳥羽上皇の近臣らと西国勢が迎え撃った。
総大将には甲斐宰相中将こと藤原範茂(ふじわらの のりもち)。しかし坂東勢は大軍。佐々木信綱(ささき のぶつな)が先陣を切って宇治川を渡り切ると、6月14日には朝廷の軍勢を散々に打ち破り、勝負にならなかった。
……或は落失ぬれは、同十六日泰時入洛して七月十三日に一院をは隠岐国へ奉移。同卅日新院をは佐渡国へそ奉移ける……。
※『保暦間記』泰時入洛、両院移両国より
【意訳】敗れた者らは逃げ失せてしまい、6月16日に泰時は入洛。7月13日に一院(後鳥羽上皇)を隠岐国へ流罪とし、7月30日には新院(順徳院)を佐渡国に流罪とした。
……中院は此事御同心もなく、御諫有けれはとて、都に止め申奉けるを「両院かく成せ給ふ上は一人留るへきにあらす」と宣ひて、閏十月十日阿波国へ御遷幸ならせ給ふ。誠にいみしき賢王にて御座けるにや……。
※『保暦間記』泰時入洛、両院移両国より
【意訳】ところで中院(土御門院)は今回の件に無関係どころかむしろ父や兄弟を諫めたため無罪放免とされた。
しかし「父や兄弟が辛い思いをしているのに、自分だけ京都に残るべきではない」ということで、閏10月10日に阿波国(現:徳島県)へ自発的に移られた。実にすばらしい人格者でいらっしゃると人々は讃えたそうな。
終わりに
以上、『保暦間記』における承久の乱をざっくり紹介してきました。鎌倉時代中期に編纂された『吾妻鏡』に比べると、ちょっとあっさり気味ですね。
大河ドラマには出てきていない(そして多分出てこない)であろう土御門院と順徳院も対照的なキャラクターで、彼らにも出番が欲しいところですが、最後まで希望を捨てずにいます。
大江親広の葛藤や伊賀光季の決断(そして父子の絆)など、数々のドラマが凝縮されたこのクライマックスを三谷幸喜がどう描き上げるのか、最後まで見留めましょう!
※参考文献:
スポンサーリンク
コメント