石橋山で窮地に陥っていた源頼朝(演:大泉洋)を救ったご縁でその懐刀として活躍した平三(へいぞう、へいざ)こと梶原景時(かじわらの かげとき)。
中村獅童さんが演じる景時は文武両道を兼ね備える名将ですが、伊東祐親(演:浅野和之)&伊東祐清(演:竹財輝之助)父子の暗殺や上総介広常(演:佐藤浩市)の粛清など、ダーティな汚れ仕事もこなします。
そんな万能ぶりが頼朝から重宝されたものの、頼朝の死後は彼をつかいこなせる者がいなくなり、ついには鎌倉から追放・粛清されてしまったのでした。
今回は地元・鎌倉市梶原に鎮座する御霊神社(ごりょうじんじゃ。梶原御霊神社)に参拝。景時が創建したと言い伝えられていますが、果たして本当なのでしょうか。
梶原御霊神社へのアクセス
梶原の御霊神社には、湘南モノレール線「湘南深沢駅」から徒歩10分弱で参拝が可能です。
(JR大船駅南改札を出たら、ルミネウィングを通過or迂回して徒歩2分の場所にモノレール駅があります。大船~湘南深沢間は6分ほど)
駅を出たらそのまま真っすぐ歩き、左手に湘南信金が見えたらその手前を川沿いに左折します。
その新川(しんかわ)を右手に見ながらひたすら真っすぐ進んでいくと、左手に桜並木と鎌倉市立深沢小学校(以下、小学校)が見えてきたら正解です。
小学校の敷地に沿って左折する細い路地に入り、更に突き当りの丁字路を左折すると、右手が御霊神社となります。
ちなみに、この小学校の敷地内には景時の墓と伝わる供養塔があるので、お時間が許すのであれば是非とも参詣したいところですね。
※セキュリティ面から平日(児童の授業中)などは避け、土日祝日など校庭が開放されている時にお邪魔するのがいいでしょう。他の利用者に迷惑がかからないよう努めたいところです。
鳥居をくぐり、参道を進んでいくと舞殿(まいどの)があるので、足腰に不安のある方はここを拝殿(はいでん)代わりに参拝されるといいでしょう。
※社殿(本殿)は舞殿裏手の石段上にあります。滑ることもあるため、足元にはご注意下さい。
由緒書きの石碑を読んでみると……
当社にお祀りされている御祭神(ごさいじん)は、かつて鎌倉の地を拓いた鎌倉権五郎景政(かまくらの ごんごろうかげまさ)。景時や大庭景親(演:國村隼)たち鎌倉一族の祖先です。
【御霊神社】
鎮座地 鎌倉市梶原一丁目十二番二十七号
御祭神 鎌倉権五郎景政霊由緒 御祭神景政は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(一〇四五年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し安部貞任・宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(一〇五二)時の人始めて鎌倉権五郎景政に御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり
後年鎌倉権大夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(一一九〇年)九月梶原平蔵景時一宇を建て、景政の霊を祀り御霊社と尊称す。※境内にある由緒書き(石碑)より。
※安「部」貞任、梶原「平蔵」景時など原文ママ。
永承壬辰(みずのえのたつ)年は永承7年(1052年)に相当。いわゆる前九年の役は永承6年(1051年)に始まったとされるため、この西暦表記(1045年)当時はまだ奥州に下向していないものと考えられます。
『奥州後三年記』によると景政は後三年の役(永保3・1083年~寛治元・1087年)で初陣。その時点で16歳(延久元・1069年生まれ)と伝わっているため、そもそも生まれていません。
更には源頼義(みなもとの よりよし)は承保2年(1075年)に亡くなっており、後三年の役に際して奥州へ赴いたのはその嫡男・源義家(よしいえ。八幡太郎)です。
恐らく、景政が後三年の役に際して源義家に従って安倍貞任(あべの さだとう)・安倍宗任(むねとう)兄弟に勝利したことを伝えたかったのでしょう。
果たして勝利を収め、鎌倉に凱旋した景政はその死後、人々から御霊大権現(ごりょうだいごんげん)として祀られました。しかし天喜元年は西暦で1053年に相当し、また景政が生まれてもいませんから、この辺りにも誤解があるようです。
ところで、石碑によるとこの辺りには鎌倉権大夫景通(ごんのたいふかげみち。景政の兄弟?叔父?)が居館を構えていたそうで、子供・景久(かげひさ)の代になって苗字を梶原と改めました。景時はその4代目となります。
そして歳月は流れて建久元年(1190年)9月。景時は景政の英霊を祀る御霊社を創建……それがこの梶原御霊神社の始まりということです。
鶴岡八幡宮を模して造られた?社殿と境内
しかし、舞殿には氏子会によるこんな案内文が置いてありました。
参拝の皆さまへ
本日は ようこそ お出かけなされました。
当社は社碑のように梶原景時公の手になる神社と言われますが、その証拠となる物や場所が見当たりません。只、当社の造りが鶴岡八幡宮の姿によく似ています。
景時公が八幡社の造営に携ったという伝えもありますことからは、源氏山近くの村社を移したと見ても可なりでしょうか。
近隣では「舞殿」をもつ構造の社殿は見当りません。参道の長さ、本殿への階段、それに昭和の始め頃までは、参道の両側が水田であり、これを池に見立てれば、正に八帳宮の再来と思ってます、と土地の自慢を申し上げます。
どうぞ、ごゆるりと静寂をお楽しみください。
令和四年 梶原・御霊社氏子中
……要するに「言い伝えのみで証拠はないが、山上の社殿とその正面にある舞殿、参道の両側にかつて広がっていた水田を源平池に見立てれば、かつて景時が造営に携わった鶴岡八幡宮を模したものと考えられるのではないか」と言うことですね。
なるほど、その発想は言われて初めて気づきました。石段を登ってみると、確かに鶴岡八幡宮と似て……いないこともないかも知れませんね。
真相は今後の究明が俟たれるにしても、現代では梶原景時も御祭神として合祀(ごうし。元の神様と一緒にお祀り)されていますから、今も郷土の人々を見守っていることには間違いありません。
景時ファンの方は、是非とも一度お参りいただければと思います。
※参考文献:
- 吉田茂穂 監修『鎌倉の神社 小事典』かまくら春秋社、2002年6月
- 樋口知志 編『前九年・後三年合戦と兵の時代』吉川弘文館、2016年3月
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