ローカルな話で恐縮ですが、地元大船の離山には、この一帯で最もご利益があると言われるお地蔵様(離山富士見地蔵尊)がいます。
このお地蔵様がいつからいて、どのように言い伝えられているのか知りたかったので、ちょっと『相模国鎌倉郡村誌』を調べてみました。
するとそこには興味深いことが書いてあったので、今回書き留めておこうと思います。
梶原景時の城(砦)があったって本当?
離山
※『相模国鎌倉郡村誌』大船村(鎌倉市)より
本村西北ノ方戸塚往還ノ東南田間ニ横ハリタル芝山ヲ云フ相伝ヘテ梶原景時ノ古城墟ト云フ今八数十ノ古塚纍々トシテ山上ニ相連比ス遠ク之ヲ望ムニ恰モ鋸歯ノ如シ
梶原景時の名前に興奮するのは解ります(そんな奴そうそういないから大丈夫)。解りますが、とりあえずは現代語訳しましょう。
離山(はなれやま)とは、大船村の北西から戸塚往還の南東にかけて広がっていた、田園地帯に横たわる柴山(柴つまり薪を採取するための山)です。
現代でも同じ地名が交差点や町内会等の名前として残っていますが、ここにはかつて梶原景時が城(砦)を構えていたという伝承もあるとか。
現在(明治初期)は数十という古い石碑類が山頂にゴロゴロ鎮座していたので、遠くから見るとまるで鋸歯みたいだったということです。
……梶原景時と言えば、かつて石橋山の合戦で窮地に陥った源頼朝公を見逃し、後に鎌倉幕府で侍所別当を務めた名将。
そんな景時が、ここに砦を構えていたというのは本当でしょうか。
実際のところは史料的な裏づけがないからともかくとして、ヒントになりそうな地元の伝承を聞いたことがありました。
……狐にばかされた話としては、うちのおふくろが、はなれ山の地蔵さまのところにかかると、急にさあっと麦が風もなかったのになびいちまった。そのとたんに、もらってきたお土産の重詰をとられちまった。……
※『としより の はなし 鎌倉市文化財資料 第7集』小袋谷
これは恐らく、離山に出没したという追い剥ぎを表している(狐にかこつけている)のではないでしょうか。
大東亜戦争に敗れて間もない昭和20年代(1945〜1954年)、大船村から大船駅まで出るには離山を越えねばならず、その道中には追い剥ぎが出たという話を聞いたことがあります。
(今はすっかり造成されて地形もなだらか、往時の面影はまったくありませんが……)
悪党が活動しやすく、治安が悪かった離山。そんな場所だからこそ、景時は砦を構え「鎌倉の北玄関」を抜かりなく警備したのではないでしょうか。
真偽のほどはともかく、いかにも景時らしいエピソードとして、折あらば誰かに紹介したいと思います。
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おまけ:離山富士見地蔵尊の由来
※むしろこっちの方が本題だったのでは……。
石造 離山地蔵菩薩坐像
昔 この山の頂に古い塚が十三ヶ所ありました。
一、七〇〇年(元禄期)頃か?山上に石地蔵が建ちました。
それからは、この山を地蔵山と呼ぶようになりました。
本来六道の衆生を化導する他に地蔵は徐々に旅行安全、疫病防止、子育て、縁結びなど変容し、この地蔵は「目のお医者」という話が伝わっています。
昭和一三年(一、九三八年)山上がくずされ、地蔵は今より少し上に移りました。
昭和五十八年四月(一九八三年)現在地に鎮座しました。
※現地の案内板より
※参考文献:
- 『神奈川県郷土資料集成第十二輯 神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌』神奈川県図書館教会郷土資料編集委員会、1991年1月
- 鎌倉市教育委員会社会教育部文化財保護課 編『としより の はなし 鎌倉市文化財資料 第7集』鎌倉市教育委員会、1984年12月
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