元久2年(1205年)閏7月20日、鎌倉を追放された牧の方(りく。演:宮沢りえ)。
しばらくは夫・北条時政(演:坂東彌十郎)と共に伊豆で暮らしていましたが、再起の見込みがないと見切るや京都へ去ってしまいました。
「いいんだよ。あいつはここよりも京都の方が似合う」
そう遠い目で語った時政は、建保3年(1215年)1月6日に亡くなります。享年78歳。
さて、京都へ行った牧の方は、その後どんな暮らしをしていたのでしょうか。今回調べたので紹介したいと思います。
念願の京都で贅沢三昧
牧の方は京都へ向かうに際して、娘婿の藤原国通(ふじわらの くにみち)を頼りました。娘とは平賀朝雅(演:山中崇)の未亡人、劇中では“きく(演:八木莉可子)”と名乗っていました(史料上に名前は明記されていません)。
具体的な記述こそないものの、相当に贅沢な暮らしをしていたと見られ、時政の13回忌について藤原定家(さだいえ/ていか)は日記『明月記』にこんなことを書いています。
廿三日、霜凝天晴、今日遠江守時政朝臣後家牧尼、於國通卿聟、有巣河家供養一堂、十三年忌日云々、宰相女房幷母儀、宇都宮入道頼綱妻、昨日向彼家、亭主語、公卿宰相招請殿上人、公卿直衣、殿上人束帯、一長者前大僧正導師云々、関東又堂供養云々、餘慶照家門歟、雑人等云、秉燭以後取布施、導師連々、按察、布施以前早出皇后宮大夫、布施以前早出、宮司、亭主、平宰相、侍従、宰相、治部卿、皆直衣六人、宗平朝臣、定平朝臣、實経朝臣、隆盛朝臣、亭主爲于云々、實蔭朝臣、隆範朝臣、信實朝臣、家任、少将、氏通、諸大夫三四人、人数不幾、孝綱、盛忠、堂童千寿長等役之、
頭注 導師相具綱所、備威儀、讃衆僧綱六口之中道寛供奉云々、公長取誦経導師布施、此宰相取別禄餘劔、両人二反……【意訳】霜が降りる寒さだが、快晴。今日は遠江守こと北条時政朝臣の後家である牧の尼が、婿の国通卿に頼んで有巣河(有栖川。別記事に「ありす河」の記述あり)の館に一軒の仏道を供養させた。時政の十三回忌とのこと。宰相の女房とその母親、宇都宮頼綱の妻(こちらも“りく”の娘)らが、昨日有巣河家へ向かった。館の亭主(国通)が語るところによれば……(後略)……。
※『明月記』安貞元年(1227年。嘉禄3年)正月23日条
ゲストには、錚々たるメンバーがずらり勢ぞろい。これだけ招待するには、莫大な費用がかかったことでしょう。
また、カネにモノを言わせて関東にも供養堂を建立させたとのことで、まったく「餘慶照家門歟(※)」と定家の呆れ顔が目に浮かびます。
(※)よけい、かもんをてらさんか。余りのおめでたさに、家屋敷まで光り輝かんばかりだ……という意味。とかく湿っぽい法事に用いる表現としては、なかなかの皮肉ですね。
もちろん亡き夫の菩提を弔うのは結構な功徳ですが、何でも程度というものがあります。法事ですらこの有様ですから、日ごろよほど贅沢三昧に暮らしていたことが察せられます。
かつて時政を魅了して鎌倉じゅうを掻き回した悪女は、どこへ行こうと最期まで悪女でした。
(贅沢=必ずしも悪女ではないものの、婿殿の元へ転がり込んで、立場も考えず贅沢に暮らす態度はかなりの図太さです)
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終わりに
その後、牧の方(牧の尼)がいつ亡くなったかについては記録がありません。ところで『明月記』によると寛喜元年(1229年)6月11日、在巣河にて正日(しょうにち。四十九日)の法要が営まれています。
十一日、丁未、天晴陰、今日宰相所縁女房於在巣河修正日佛事云々……。
※『明月記』寛喜元年(1229年)6月11日条
もし仏事の対象が牧の方であれば、逆算して同年4月22日に亡くなった計算になります。
牧の方は生年も不肖ながら、仮に治承4年(1180年)に20歳で時政の元へ嫁いだ(永暦2・1161年生)とすれば、寛喜元年(1229年)で69歳。まぁこんなところでしょうか(あくまで仮定ですが)。
果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回にも登場するようなので、最後にどんな活躍を魅せてくれるのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 藤原定家『明月記 第三』国書刊行会、国立国会図書館デジタルコレクション
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