「何だよお前、酒呑めないのかよ!」
「いえ、今日は車で来ているので……」
昨今いくらか減って来たとはいえ、いまだに一部ではびこっているアルハラ(アルコール・ハラスメント)。
「え~、キミお酒呑めないの?男のくせに軟弱~!」
「いや、だから運転なんですってば……」
どうして「酒が呑めないと軟弱」なのかは意味不明ですが、この「男たるもの酒を呑むべし」という悪しき価値観は21世紀、令和の御代になってもいまだ根強く残っています。
呑みたければ(財布や肝臓などの事情が許す限り)好きなだけ勝手にに呑めばいいと思いますが、それでも他人に強要するのは本当に迷惑ですね。「酒は自分のペースで適量を」が大人の合言葉です。
そんな迷惑な事例は戦国時代にもあったようで、今回は黒田長政(くろだ ながまさ)の家臣でも特に勇猛で知られた黒田八虎(~はっこ)の一人・母里但馬守太兵衛友信(もり たじまのかみ たへゑとものぶ)を紹介。
豪傑らしいアルハラ撃退エピソード、いったい何をしたのでしょうか。
仕事中に酒はちょっと……
母里友信は弘治2年(1556年)、現代の兵庫県姫路市に当たる播磨国飾磨郡妻鹿の国人・曽我一信(そが かつのぶ)の子として誕生、永禄12年(1569年)に母方の母里家へ養子入り、母里太兵衛と呼ばれました。
18歳となった天正元年(1573年)、印南野合戦で初陣を飾って以来、常に黒田家の先鋒を務めて数々の武勲を立て、その生涯に76もの首級を上げた豪傑です。
そんな太兵衛がある時、京都の伏見城に滞在していた福島正則(ふくしま まさのり)の元へ使者として派遣されました。
「おぅ、但馬(太兵衛)殿か。遠路ご苦労である。まぁ、一杯呑まれよ」
面会した正則はすっかりいい気分で、公務でやってきた太兵衛にも酒を勧めます。
「いえ。それがしは公務中にございますれば、酒は又の折にでも」
酒は嫌いじゃない、むしろ好きな方ですが、今は主君より命を受けて遣わされているのであり、酒に酔って粗相などする訳にはいきません。
これを聞いて、現代人なら「じゃあ、仕方ないな」となるのでしょうが、正則は大の酒好き、また酒豪と来ています。
「何じゃ、堅いことを申すでない。さぁさぁ一献やらいでか」
正則はこれでもかとばかりの大盃に酒をなみなみと注ぎ、これを太兵衛に押しつけました。
「されば、主の御用が済みましたら……」
とにかく今はまだ公務中だから、後でだったらつき合ってやるから……そう固辞し続ける太兵衛に、正則は腹を立てて挑発します。
「まったく、逃げ口上ばかり並べおって……酒に酔ったくらいで役目も果たせぬとは、黒田の家中に男はおらぬようじゃなぁ」
そこまで侮辱されては、さすがの太兵衛も黙ってはおれませんでした。
呑んだ褒美は日本一
「よろしい。ならばそれしき、一呑みに干して進ぜよう。して、干せたならば、何とされる」
「そなたの望み通りに褒美をとらせよう……ヒック」
「武士に二言はございますまいな」
「ござらぬ、ござらぬ。さっさと干されぃ……ウィ」
完全に「呑み干せる訳がなかろう」とナメ切った態度……干せるか否か、見るがいい。
「然らば」
言うなり太兵衛は受け取った大盃をグイグイと傾け、瞬く間に呑み干してしまいました。
「……いかがか」
約束の褒美として、正則が豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から拝領した天下の名槍「日本号(ひのもとごう)」を要求。
「え、流石にこれだけは……」
正則は大いに渋りましたが、太兵衛が「武士に二言は……」と迫ると、やむなくこれを明け渡しました。
「酒を馳走になった上、土産の槍まで賜った。いやぁ福島殿は気前がよいのぅ」
以来、この日本号は「呑み取りの槍」などと呼ばれ、黒田武士の面目を大いに施したということです。
終わりに
♪酒は呑め呑め 呑むならば
日本一(ひのもといち)の この槍を
呑み取るほどに 呑むならば
これぞ真(まこと)の 黒田武士……♪※民謡「黒田節」より
これも結局「酒を呑むならば、日本一の槍を勝ち取るような呑み方をしてこそ真の黒田武士=男だ」というオチですが、呑むべきでない場面においてキチンと断る芯の強さも、やはり大切ではないでしょうか。
福島正則が日本号を失ったくらいならまだ可愛いもので、酒に酔って人生の大切なものを失い、取り返しがつかなくなってしまったエピソードは枚挙にいとまがありません。
「酒は自分のペースで適量を」
酒量の多寡で人間(特に男性)の価値を量ろうとする昭和以前の価値観が改まることを、心より願っています。
※参考文献:
- 本山一城『黒田官兵衛と二十四騎』宮帯出版社、2014年3月
- 本山一城『黒田軍団 如水・長政と二十四騎の牛角武者たち』宮帯出版社、2008年9月
- 小和田康経『刀剣目録』新紀元社、2015年6月
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