時は天正3年(1575年)5月21日。武田勝頼(たけだ かつより)率いる甲州の騎馬軍団を撃退した徳川家康(とくがわ いえやす)そして織田信長(おだ のぶなが)連合軍。
いわゆる長篠の戦い(設楽原の戦い)において、武田勢は鉄砲の圧倒的火力を前に、為す術なく壊滅してしまいました。
亡き武田信玄(しんげん)以来の名将たちが数多く喪われ、次第に家運が傾いていくことになります。
今回は長篠の戦いで討死した武田の名将たちを一挙紹介。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、名前だけでも登場するでしょうか。
☆:設楽原の決戦で討死した者
◇:長篠城周囲の攻防戦で討死した者
※☆、◇それぞれ五十音順にまとめています。
合わせて読みたい
長篠の戦いで討死した武将たち【あ行】
☆油川信次(あぶらかわ のぶつぐ。四郎左衛門)
☆甘利信康(あまり のぶやす。三郎四郎)
☆安藤左近(あんどう さこん)
☆安中景繁(あんなか かげしげ。七郎三郎)
☆岩手胤秀(いわて たねひで。左馬之助)
☆恵光寺快川(えこうじ かいせん)
☆大井貞清(おおい さだきよ。左衛門督)
☆岡部竹雲斎(おかべ ちくうんさい)
☆小山田昌晟(おやまだ まさあきら)
◇雨宮家次(あめのみや いえつぐ。十兵衛)
◇飯尾助友(いのお すけとも。弥四右衛門)
長篠の戦いで討死した武将たち【か行】
☆笠井高利(かさい たかとし。肥後守)
☆鎌原重澄(かんばら しげずみ。筑前守)
◇河窪信実(かわくぼ のぶざね。武田兵庫介)
◇高坂昌澄(こうさか まさずみ。源五郎)
◇五味高重(ごみ たかしげ。与三兵衛)
長篠の戦いで討死した武将たち【さ行】
☆真田信綱(さなだ のぶつな。源太左衛門)
☆真田昌輝(さなだ まさてる。徳次郎)
◇三枝昌貞(さいぐさ まささだ。宗四郎)
◇三枝守義(さいぐさ もりよし。源左衛門)
◇三枝守光(さいぐさ もりみつ。甚太郎)
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長篠の戦いで討死した武将たち【た行】
☆土屋貞綱(つちや さだつな。忠兵衛尉)
☆土屋昌続(つちや まさつぐ。平八郎)
長篠の戦いで討死した武将たち【な行】
☆内藤昌秀(ないとう まさひで。源左衛門)
☆禰津月直(ねづ つきなお)
◇波合胤成(なみあい たねなり。備前守)
◇名和重行(なわ しげゆき。無理之助)
長篠の戦いで討死した武将たち【は行】
☆馬場信春(ばば のぶはる。美濃守)
☆原昌胤(はら まさたね。隼人佐)
☆原盛胤(はら もりたね。甚四郎)
☆堀無手右衛門(ほり むずえもん)
長篠の戦いで討死した武将たち【ま行】
☆望月信永(もちづき のぶなが)
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長篠の戦いで討死した武将たち【や行】
☆山県昌景(やまがた まさかげ。三郎兵衛)
☆山県昌次(やまがた まさつぐ。甚太郎)
☆横田康景(よこた やすかげ。彦十郎)
☆米倉重継(よねくら しげしぐ)
◇山本菅助(やまもと かんすけ。二代目)
長篠の戦いで討死した武将たち【わ行】
◇和気宗勝(わき むねかつ。善兵衛)
◇和田業繁(わだ なりしげ。右兵衛大夫)
……ざっと数えただけでも39名。一度でここまで多くの武将が討死するとは、戦闘の激しさが分かります。
終わりに
……武田が家にて老功の家人どもこの戦に数を尽して討死せしかば。是より甲州の武威は大におとりしとぞ。この日両家に討取首一万三千余級。その中にも七千は 当家にて討取れしなり。又味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ……
【意訳】武田家の名将たちは今回の戦さで数多く討死し、大きく力を落とした。
設楽原の戦いで織田・徳川家が討ち取った武田勢の首級は実に13,000余り、うち7,000は徳川家が討ち取ったものである。
一方、我らが味方の討死は両家合わせても60人にもならなかった。
※『東照宮御實紀』巻二 天正三年「長篠役(大戦之三)」
……と言いますから、誇張はあるにしてもかなり一方的な戦いだったようです。それだけ鉄砲の火力は圧倒的で、土塁や馬防柵で騎馬隊の機動力を削いだ戦術と合わせて画期的な戦果をもたらしたのでした。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、名将たちの壮絶な最期がどのように描かれるのか、今から固唾を呑んで見守るばかりです。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 黒田基樹ら編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年5月
- 平山優『検証・長篠合戦』吉川弘文館、2014年7月
- 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団 信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年6月
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