◆志水燕十/加藤虎ノ介
しみず・えんじゅう/かとう・とらのすけ「作者求む」の張り紙をきっかけに蔦重とつながる戯作者
※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
北川豊章と称して捨吉(染谷翔太)に絵を描かせ、身体を売らせていた博打好きの男。捨吉改め勇助(喜多川歌麿)を奪った蔦屋重三郎(横浜流星)に、戯作の仕事を貰いますが、果たして……?
という訳で北川豊章の名乗りを譲り、志水燕十と称した彼は、一体どのような生涯をたどるのでしょうか。
戯作に浮世絵、狂歌と多彩な活躍

志水燕十は享保11年(1726年)、御家人の家に生まれました。本名は鈴木庄之助(すずき しょうのすけ)、江戸の根津清水町(東京都江東区)に住んでいたと言います。
安永年間の末期から戯作者として活動を始め、洒落本『一鬼夜行(いっきやこう)』・『滸都洒美選(ことしゃみせん)』や黄表紙『身貌大通神略縁起(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』・『啌多雁取帳(うそしっかりがんとりちょう)』などを発表しました。
寡作ながらエッジの立った作風が見られ、また鳥山石燕(とりやま せきえん)に学んだ画才を活かして挿絵などの仕事も手がけています。
天明3年(1783年)に刊行された蓬莱山人帰橋(ほうらいさんじん ききょう)の洒落本『愚人贅漢居続借金(ぐにんおとこいつつかりがね)』によると、大田南畝(おおた なんぽ)・朱楽菅江(あけら かんこう)・雲楽山人(うんらくさんじん)、蓬萊山人帰橋と共に「山の手の大先生」として名を挙がっており、かなり筆の立つ人物として知られていました。
他にも狂歌師としても活躍。別号に裡町斎(うらまちさい。裏町齊)・奈蒔野馬乎人(なまけの ばかひと)・志水つばくら(燕)などと名乗り、唐来三和(とうらい さんな)や蔦屋重三郎・喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)らとも親しく交流したと言います。
しかし素行の方は今一つだったようで、滝沢馬琴『江戸作者部類』によれば「罪を蒙りて終わる所を知らず」と評されていました。いったい何をやらかしたのでしょうか。
そして天明6年(1786年)8月21日、61歳で世を去ったのでした。
志水燕十・基本データ

- 生没:享保11年(1726年)生~天明6年(1786年)8月21日没
- 実名:鈴木庄之助
- 出身:江戸
- 身分:御家人
- 職業:武士、戯作者、狂歌師、絵師
- 別号:裡町斎・奈蒔野馬乎人・志水つばくら(つばくろ)・鳳城北根津隠士(おおとりじょうほく ねづのいんし)、台閣西之隠士(たいかくさいのいんし)など
※名前の読みは諸説あります。
終わりに

今回は江戸時代に活躍した志水燕十について、その生涯をたどってきました。
劇中でも演じられていた通り、お行儀は悪そうですが口先だけでもなさそうです。
果たしてどんな活躍を魅せてくれるのか、加藤虎ノ介の熱演に注目しましょう!
参考文献
- 日本浮世絵協会 編『原色浮世絵大百科事典 第2巻』大修館書店、1982年8月
- 浜田義一郎『江戸文藝攷: 狂歌・川柳・戯作』岩波書店、1988年5月