(11)富本、仁義の馬面
初回放送日:2025年3月16日
蔦重(横浜流星)は人気の富本豊志太夫/午之助(寛一郎)から俄祭りへの参加を拒まれる。そこで浄瑠璃の元締め・鳥山検校(市原隼人)を訪ね瀬川(小芝風花)と再会する…※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
劇中では当初、蔦屋重三郎との対立が描かれた二代目富本豊志太夫/初代富本午之助(とみもと とよしだゆう/うまのすけ)。果たして彼は何者なのか、今回はその生涯をたどってみたいと思います。
富本豊志太夫の生涯を駆け足でたどる
二代目富本豊志太夫は宝暦4年(1754年)、初代富本豊志太夫(本名は福田弾司)の子として誕生しました。
明和元年(1764年)に11歳で父を亡くし、明和3年(1766年)に中村座の「文月笹一夜(ふみつき ささのひとよ) 下の巻」で初舞台に上がります。
やがて明和7年(1770年)に父の名跡である富本豊志太夫を襲名しました。
※大河ドラマに登場するのはこの時期でしょう。
そして安永6年(1777年)に二代目富本豊前太夫(ぶぜんだゆう)を襲名します。

特徴的な面長であったことから、ファンからは「馬面(うまづら)豊前」と呼ばれ、美声で人気を集めました。
文化11年(1814年)には門人であった清元延寿太夫(きよもと えんじゅだゆう)が清元節を興し、次第に人気を奪われて行きますが、負ける訳には行きません。
奮闘の甲斐あって、文化14年(1817年)には富本豊前掾藤原敬政(ぶぜんのじょう ふじわらの たかまさ)の名跡を受領したのです。
そして文政2年(1819年)に当時13歳の鬘屋善太郎(かづらや ぜんたろう。鬘屋善八の子)を養子に迎え、文政5年(1822年)7月17日に69歳で世を去ったのでした。
その年に善太郎は二代目富本午之助の名で初舞台に臨み、その後も三代目富本豊前太夫を襲名。大いに活躍したということです。
終わりに

今回は富本節の浄瑠璃師・富本豊志太夫(午之助/富本豊前太夫)について紹介してきました。
第11回放送「富本、仁義の馬面」では吉原遊女たちを救うため、一肌脱いでみせる心意気で視聴者の好評を博しています。
第12回放送「俄なる『明月余情』」でも引き続き活躍するようで、早くも来週3月23日が楽しみですね!
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