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【鎌倉殿の13人】三浦義村の娘・初(演:福地桃子)は北条泰時の正室「矢部禅尼」となるのか?その生涯をたどる

大河ドラマ
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義村「お前、うちの初(はつ)と一緒になる話どうなったんだ」
義時「いくら何でも、まだ早すぎるだろう」

……

義村「早く唾つけとかねぇと取られちまうぞ。あれはいい女子(おなご)だ」
義時「父親の言うことか」

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第24回放送「変わらぬ人」より

いつだったか、三浦義村(演:山本耕史)がどこかで誰か(故人)とこしらえたという訳アリの娘・(演:福地桃子)。養育を八重(演:新垣結衣。故人)に押しつけていたのが、いつしか大きく育っていたようです。

どうも成長著しい金剛(演:坂口健太郎。後に北条頼時⇒泰時)と夫婦にしたいようですが、劇中の建久4年(1193年)時点で、金剛はまだ11歳。父・北条義時(演:小栗旬)の言う通り、せめて元服後でも遅くはないと思います。

「結婚なんてまだ早すぎる!」義村からの縁談にうろたえる?義時(イメージ)

恐らく二人は一緒になるものと思われますから、初は義村の娘で泰時の正室となる矢部禅尼(やべのぜんに)に相当するのでしょう。

今回はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習をかねて、矢部禅尼を紹介。果たして彼女は、泰時と添い遂げることが出来るのでしょうか。

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北条泰時との結婚生活

矢部禅尼は文治3年(1187年)に誕生(※1)。本名は不明(※2)、建久5年(1194年)2月2日、金剛の元服と共に結婚しました。

金剛改め頼時との婚儀(イメージ)

(※1)大河ドラマだと生まれた年がちょっと前倒しになっていましたが、その辺は諸説あるようです(物語の進行上で支障もないですから、見逃して下さい)。

(※2)矢部禅尼は夫の死後に出家して以降の通称。法号は禅阿(ぜんあ)とのこと。ここでは便宜上、矢部禅尼で統一します。

……則將軍家出御。有御加冠之儀。武州。千葉介等取脂燭候左右。名字号太郎頼時。……(中略)……次召三浦介義澄於座右。以此冠者。可爲聟之旨被仰含。孫女之中撰好婦。可隨仰之由申之云々。

【意訳】源頼朝(演:大泉洋)がお出ましになり、手ずから冠をかぶせてくれました。大内義信(武蔵守)と千葉介常胤(演:岡本信人)が左右に控えています。金剛は江間太郎頼時と改名しました。
頼朝は三浦義澄(演:佐藤B作)に頼時へ孫娘を嫁がせてはどうかと勧めたところ、義澄はよい相手(義村の娘・初と仮定)を選んで頼時と婚約させたのだとか。

※『吾妻鏡』建久5年(1194年)2月2日条

それから8年後の建仁2年(1202年)8月23日、約束通り二人は結婚したのでした。

江馬太郎殿嫁三浦兵衛尉女子。

【意訳】江間太郎(頼朝の死後、北条泰時と改名)殿のもとへ、三浦兵衛尉(義村)の娘が嫁いだ。

※普通に読むと「泰時が義村の娘に嫁いだ」となってしまいますが、それはちょっとおかしいため、自然な形に読み替えました。

※『吾妻鏡』建仁2年(1202年)8月23日条

夫婦仲は円満だったようで、結婚した翌建仁3年(1203年)に長男の北条時氏(ときうじ)が誕生。この子は後に泰時ともども大活躍します。

承久の乱で活躍する泰時・時氏父子(イメージ)『承久記絵巻』より

が、どういう訳か二人は離縁。その時期も理由も不明です(三浦と北条の仲が悪くなったという話もない)。

後に泰時は安保実員(あぼ さねかず)の娘を後妻に迎えていますが、そっちの話しは又の機会に。

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三浦一族の叔父・佐原盛連と再婚

さて、矢部禅尼は佐原盛連(さはら もりつら。義村の従弟で彼女にとっては叔父)と再婚しました。

蘆名光盛(あしな みつもり)・加納盛時(かのう もりとき)・新宮時連(しんぐう ときつら)を生み、天福元年(1233年)5月22日に夫が亡くなると出家。

夫の菩提を弔う矢部禅尼(イメージ)

相模国三浦郡矢部郡(現:神奈川県横須賀市)に住んだため矢部禅尼と呼ばれたのでした。

嘉禎3年(1237年)6月1日、亡き夫の所領であった和泉国吉井郷(現:大阪府岸和田市)を相続することが認められた旨の下文が届けられました。

届けに来たのは北条時頼(ときより)。泰時との間に生んだ北条時氏の子で、矢部禅尼にとっては孫に当たります。

両者がどれほど親密だったのかは分かりません。しかし宝治元年(1247年)に三浦一族が将軍家≒執権北条氏に対して謀叛の兵を挙げた宝治合戦では、矢部禅尼が生んだ三人の子たちはそろって北条氏に味方しました。

かつては何かよんどころない事情で泣く泣く別れたものの、やはり泰時や時頼たち=北条氏に対する愛情が勝った(から、息子たちに加勢させた)のかも知れません。

(あるいは万が一北条が勝った場合に備えて、保険を打った可能性も考えられます)

この宝治合戦で三浦一族のほとんどが滅亡してしまった中、加納盛時は再び三浦の苗字を称して三浦一族を再興したのでした。

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終わりに

その後、矢部禅尼は建長8年(1256年)4月10日、70歳で世を去りました。時頼は祖母の死を悼んで50日の喪に服したと言います。

武州前刺史禪室後室禪尼依不食所勞逝去〔季七十〕。相州依此事着服。五十日御服暇云々。

【意訳】泰時の前妻で未亡人の矢部禅尼が不食の所労(ふじきのしょろう。精神的食欲欠乏症か)により、70歳で亡くなりました。北条時頼(相州)は身に着いたケガレを清めるため、50日間の喪に服したとか。

※『吾妻鏡』建長8年(1256年)4月10日条

当時、生き物の死はケガレとされ、そのケガレを落とすまで公の場に出るなどをひかえる慣習がありました。

北条氏と三浦氏の橋渡しを務め、三浦一族の命脈を後世へとつないだ矢部禅尼。大河ドラマではどんな活躍を魅せてくれるのでしょうか。福地桃子さんの好演に期待したいですね!

※参考:

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