「この戦、俺がついた方の勝ちだ!」
かつて二万騎と称する大軍をもって源頼朝(演:大泉洋)の下へ馳せ参じ、坂東における勢力基盤を確立せしめた上総介広常(演:佐藤浩市)。
お陰で鎌倉入りを果たせた頼朝の武士団。最大級の功労者として、広常は御家人筆頭の地位を占めるように。
しかし、その突出した存在は常に頼朝から警戒されていました。
「最も頼りになる者は、最も恐ろしい」
最期は謀叛の疑いをもって、梶原景時(演:中村獅童)に斬られてしまいます。
広常を頼りにしながらもずっと恐れ続けた頼朝と、頼朝を大好きでしょうがない広常とのすれ違いはどこで生じてしまったのでしょうか。
今回は『吾妻鏡』『愚管抄』などの史料から、広常が謀叛を疑われるに至った過程とその最期を紹介。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」との違いを楽しむ予習になればと思います。
公私とも三代の間、いまだその礼を成さざり
時は治承5年(1181年)6月19日。頼朝が避暑のため、三浦の浜辺へ遊びにいきました。
「よぅ武衛、きたか!」
かねて待ち合わせをしていた広常は、頼朝の姿を見ると嬉しくなって馬の手綱=轡(くつわ)を緩めました。
こうすると馬が頭を下げるので、これをもってお辞儀の代わりとする武家流のあいさつです。また、馬をリラックスさせるので「あなたと戦う意思=敵意はないよ」という友好表明にもなります。
しかし、これは親しい者同士のフランクな作法であって、主君である頼朝に対して行うのは適切ではありません。
当然ながら、広常に従っていた50数名の郎従たちは、みんな下馬して頼朝に平伏しています。
「上総介殿。鎌倉殿が御前なれば、下馬なされよ」
頼朝につき従っていた三浦十郎義連(みうら じゅうろうよしつら。三浦義澄の末弟)が広常を促しました。
が、そんなものを聞き入れるような広常ではありません。
「うるせぇな。ウチは爺さんの代からずっと下馬の礼なんぞとった例しがねぇ。だいたい武衛の間柄に、そんなモノは必要ねぇんだよ。なぁ武衛!」
【原文】廣常云。公私共三代之間。未成其礼者
※『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条
(ひろつねのいわく。こうしともさんだいのかん、いまだそのれいをなさざり)。
頼朝「ん……ぅむ」
ここで広常とトラブルを起こしたら頼朝の身が危ない……義連は仕方なく広常の態度を見逃すよりありませんでした。
広常は一事が万事この調子。頼朝は大好きだけど家臣になった覚えはなく、あくまでも盟友的な感覚で接し続けたようです。
俺がお前を助けてやる。俺がお前を支えてやる。だってお前は俺の武衛なんだから……そこには上も下もない。坂東人らしい情の熱さと不羈独立の精神がいかんなく表れています。
しかし、それでは天下は獲れないのです。広常と頼朝は、そもそも目指すところが違っていたのでした。
「どうして武衛はそう朝廷にばっかり気を遣うんだよ。わざわざ上洛してこき使われることなんかねぇや。俺たちと坂東にいようぜ。そうすりゃ無敵なんだからよ」
【原文】……なんじょう朝家の事をのみ見苦しく思うぞ、ただ坂東にかくてあらんに、誰かは引働かさん……
※『愚管抄』巻六より
かつて富士川の合戦(治承4・1180年10月20日)で平家の追討軍を追い払い、一気に上洛を目指す頼朝を引き留めた広常のセリフ。
広常がいないと勢力基盤を保てないが、広常がいるといつまでも坂東にいなければならず、天下が獲れない。
いつしか頼朝は、広常を粛清する機会を窺うようになっていました。
双六に興じていたところを……
そんな治承6年(1182年)7月、広常が不審な動きを見せます。
上総国一之宮・玉前神社(現:千葉県一宮町)に甲冑を一領奉納。そこには一通の願文(がんもん。祈願文)が結びつけてあったのでした。
神様に差し上げる文章なので誰も見ることができませんが、それを利用して謀叛を企み、その成就を祈願する者も少なからずいたと言います。
頼朝「……平三(景時)よ、介八郎(広常)を斬れ」
景時「やはり、ご謀叛の風聞はまことで」
頼朝「もはや彼奴の本心は問わぬ。あれには随分と助けられたが、かねがね傲岸不遜の振る舞い、そして朝廷への不敬は看過しがたい」
このままでは都の覚えも悪くなり、やがて上洛を果たしても中央政権での立場(権力基盤)を確立できません。
その末路は、勢いに乗じて遮二無二上洛したものの、公家たちから嫌われて滅び去る木曾義仲(演:青木崇高)が参考になるでしょう。
景時「……御意」
かくして寿永2年(1183年)12月22日。広常は景時から双六(すごろく)に誘われ、大いに盛り上がったところを一刀に斬られたのでした。
……双六を打ちて、さりげなしにて盤を越えて、やがて首を掻き切りて持って来たりける。……
※『愚管抄』巻六より
恐らく抜き打ちにしたのでしょう。自分の右側においてある刀を瞬時に左手へ持ち替えて鞘を払い、広常に抵抗の隙を与えずその首を掻き切るとは、相当な腕前であったことが分かります。
景時「……ご所望の、首級にございます」
鮮血したたる広常の首級を前にして、頼朝は何を思ったのでしょうか。
広常は何を書いていたのか?願文を確かめてみると……
頼朝「よし、斬ってしまった以上は謀叛の証拠をとるぞ。一之宮より甲冑を引き取り、検分させよ」
年が明けた寿永3年(1184年)1月17日。玉前神社から引き取った(別の甲冑二領と交換した)甲冑を見ると、確かに願文が結ばれています。
果たして、その中には……こんなことが書かれていました。
敬白
上総国一宮宝前
立申所願事
一 三箇年中可寄進神田二十町事
一 三箇年中可致如式造営事
一 三箇年中可射萬度流鏑馬事
右志者為前兵衛佐殿下心中祈願成就東国泰平也如此願望令一々円満者弥可奉崇神威光者也仍立願如右
治承六年七月日 上総権介平朝臣広常【意訳】上総国一之宮の宝前に敬い申し上げます。これより所願を立て申します。
一、3年間、二十町(約20ヘクタール)分の収穫を奉納いたします。
※『吾妻鏡』寿永3年(1184年)1月17日条
一、3年間、しきたり通りに境内を造営いたします。
一、3年間、流鏑馬神事をたびたび奉納いたします。
なので頼朝殿の願いを叶え、東国の泰平をもたらして下さるようお願い申し上げます。叶いましたら末永く崇敬いたします。
謀叛どころか、頼朝の大願成就と東国の安泰を心から願う内容に、頼朝は深く後悔するのでした。
すぐに広常の連帯責任として捕らえていた者たちを釈放し、ねんごろに供養したと言うことです。
終わりに
ちなみに願文の最終行、日付のちょっと後ろ(同じ行)に広常の署名がありますが、これは日下署判(にっかしょはん)というへりくだった表現。
武衛のためになるなら、神様にだって頭くらい下げてやる……そんな広常の傲慢さとひたむきな思いが伝わって来ます。
果たして大河ドラマでは、そんな広常の最期がどのように描かれるのでしょうか。三谷幸喜の脚本に注目したいけど、見たくないような、見届けないと後悔するような……。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 保立道久『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年8月
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