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これも京都の洗礼か…上洛した織田信長の強引な資金調達と、関西人たちのささやか?な抵抗

戦国時代
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時は戦国、流浪の身であった足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて京都への上洛を果たし、天下人への歩みを進めた織田信長(おだ のぶなが)。

何事も派手好みの彼は、京都へ乗り込むや公家たちにカネをばらまき、その太っ腹ぶりをアピールしたと言います。

盛大に配られたおカネの財源は?(イメージ)

カネをばらまくにはどこかから調達せねばなりませんが、その手法があまりに強引だったため、思わぬ反撃を受けてしまったのでした。

果たして信長はどのようにカネを掻き集め、どのような反撃を喰らったのでしょうか。

今回はそんな信長の上洛エピソードを紹介したいと思います。

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信長の強引な資金調達

永禄11年(1568年)9月7日に上洛を開始した信長は、当時京都を抑えていた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)の攻略に乗り出しました。

三好三人衆と敵対していた三好本家の三好義継(みよし よしつぐ)やその重臣・松永久秀(まつなが ひさひで)らを味方に引き入れたことで三人衆を撃破した信長は、10月中に畿内の大半を勢力下に収めることになります。

信長に擁立され、室町幕府の第15代将軍となった足利義昭(画像:Wikipedia)

さて、戦さが始まれば民衆たちは略奪や破壊など戦火を逃れるべく、こぞって勝者に身の安全を求めました。

このお墨付きを禁制(きんせい)と言い、この場合は信長より「略奪や暴行を禁ずる」旨を認めてもらうのです。

逆に、この禁制がなければ基本的には略奪も暴行もOKということに……怖いですね。

……が、その禁制もタダではありません。信長はここぞとばかり矢銭(やせん。軍資金)や家銭(やせん。家の安全保障料)という名目で各方面へ要求します。

「まぁ、無理にとは申しませぬが……(払わなかったら、お分かりでしょうな)?」

例えば、大坂の本願寺に対しては境内の安全保障料として銭五千貫文の献金を要求しました。現代の貨幣価値に直すと、およそ3.75億円です。

商業都市として知られた堺へは銭二万貫文の矢銭を要求……こちらは15億円ほどでしょうか。

「そないな大金、払えまっかいな!」

当初は拒否した堺の商人衆でしたが、結局は信長の圧力に抗しきれず献納したと言います。

頭を抱える堺の商人(イメージ)

また、奈良の法隆寺に対しては銀百五十枚(約25キロ)、さらには札銭(さつせん。禁制の発行手数料)として銀十六貫(約43キロ)を要求されたとか。

銀を銭に換算すると六百貫文に相当。これは現代の価値で約4,000万円ほどと言われ、法隆寺にとっては大きな痛手でした。

それでも支払ったということは、境内へ乱入した織田兵による乱暴狼藉がよほど恐ろしかったのでしょう。

お陰で、法隆寺は各種の行事や法要をいとなむ費用にも事欠いたと言いますから、さぞや信長への怨みを募らせたと思われます。

銭を大量にばらまいたものの……

とまぁこんな具合に泣く泣くカネを支払わされた皆様ですが、そこは転んでもタダでは起きない?関西人。

大人しく(渋々)従うフリをして、信長に対してキッチリと反撃の仕込みをします。

10月8日、信長は強引の限りを尽くして掻き集めたカネを公家たちにばらまきました。もちろん自身の経済力をアピールするためです。

「さぁさぁ遠慮は要りませぬ、どうかお受け取り下され!」

(……けっ、ウチらから掠め取った銭を偉そうに!)

さぁ信長の撒きも撒いたり銭「万疋(まんひき)」。疋は1/10貫文(100文)なので、一万疋なら一貫文(約7,500万円)、九万疋なら約6.75億円と大きく開きがあるものの、恐らく万とは「とにかくたくさん」の意味だったのではないでしょうか。

信長の得意顔が目に浮かぶようですが、その鼻っ柱は間もなくへし折られてしまいます。

「何じゃ、これは!」

銭を受け取った公家たちは、あまりにも鐚(びた)銭が多く面食らってしまいました。

鐚銭とは文字通り「質の悪い銭」を指し、金属の摩耗劣化したものや粗末な作りのものなど、庶民の取引でも嫌がられる(※)ような代物です。

(※)状態によっては使えないこともありませんが、額面の2/3程度で取引(例:100文の買い物には150文必要)されるのが相場でした。

現代に喩えれば「結婚式のご祝儀に、ヨレヨレの札を出す」ような感覚でしょうか。庶民に恵んだならばいざ知らず、公家たちからはブーイングの嵐。

「こないな鐚銭、受け取れますかいな!」

そう。方々から巻き上げた軍資金には大量の鐚銭が混ぜ込んであり、そうとは知らず得意顔でばら撒いた結果、信長は評判を落としてしまったのです。

「何じゃあやつら……いくら価値が下がるとは言え、タダでくれてやったものに文句をつけるとは!」

腹立たしい限りですが、ここで公家たちやカネを巻き上げた者たちに怒りをぶつけたところで「銭の善し悪しも分からず、鐚銭をつかまされた田舎侍」の恥を上塗りするだけ。

これが京都の洗礼か……と思ったかはともかく、信長は引き下がるよりありませんでした。

信長の発布した撰銭令

それから年が明けた永禄12年(1569年)2月。義昭が朝廷への参内を果たした折、信長はその費用として銭ではなく米を献上したと言います。

「米ならば文句あるまい!」

加えて信長は撰銭令(えりぜにれい)を発布。銭の使用基準について、かなり細かく定められました。

定精選条々
一 ころ、宣徳、焼け錢、下々の古銭 以一倍用之
一 ゑみやう、大かけ、割れ、磨り、以五増倍用之
一 うちひらめ、なんきん、以十増倍用之 此外不可撰事
一 諸事のとりかはし、精錢と増錢と半分宛足るべし 此外は其者の挨拶にまかすべき事
一 悪銭賈買かたく停止事
永禄十二年三月一日  弾正忠

【意訳】
一つ、摩耗の激しい「ころ銭」、明から輸入した「宣徳銭」、焼けた銭、下々(げげ。最悪の状態)の銭は一倍をもって(※)これを用いよ。
(※)100%増=2枚で1枚として、つまり1枚の価値を額面の50%とする。
一つ、けがれた「えみょう(穢冥?)銭」、大きく欠けた銭、割れた銭、摩耗した銭は5枚で1枚としてこれを用いよ。
一つ、金属を打ち広げただけ(無銘)の「うちひらめ銭」、極端に小さな「なんきん(南瓜?)銭」は10枚で1枚としてこれを用いよ。
これらに挙げた意外の銭についてはえり好み(受け取り拒否)してはならない。相場に則った支払いがされているなら、きちんと受け取れ。
一つ、取引については精銭(精密にできた良い銭)と増銭(市場の銭不足に対応する水増しの鐚銭)を半々に用いるべし。双方の合意がある場合はそれに任せる。
一つ、鐚銭の売買はこれを堅く禁じる。

……以上が信長が出した撰銭令ですが、人々から嫌われる鐚銭であっても、市場の硬貨不足を避けるため、一定の相場で取引させています。

天下布武へ乗り出す信長。歌川国芳筆

経済感覚を研ぎ澄ますだけでなく、京都の空気も読むよう教訓を得た信長は、その後も天下布武の道を邁進するのでした。

※参考文献:

  • 川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書、2020年6月
  • 高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』平凡社、2018年8月

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