♪物心ついた時 母は既に居なかった
仄かな哀しみは 優しい子守唄
生まれてくる前に 父も既に居なかった……♪※幻想物語組曲「黒の預言書」より
母親が子供を妊娠してから出産するまでおよそ十月十日、その間に父親が死に(あるいはどこかへいなくなり)、生まれた子供が物心つかない内に母親も死に(あるいはどこかへいなくなり)……想像するだけでも悲しいものですが、世の中似たような境遇にある者は少なくありません。
今回はそんな一人、平安時代末期の源平合戦で父を喪うも、立身出世を果たした源希望(みなもとの まれもち)のエピソードを紹介したいと思います。
父と入れ替わりに誕生し、伯父・頼朝公と対面
源希望の父・源希義(まれよし)は8歳の時、土佐国介良(現:高知県土佐市)へ流罪とされ、20年の歳月を過ごしました。
そして治承4年(1180年)、反平家の兵を挙げた兄・源頼朝(よりとも)公に呼応するべく、豪族の夜須行宗(やす ゆきむね)らと協力して自らも兵を挙げます。
しかしその動きは事前に察知されており、平家方の蓮池家綱(はすいけ いえつな)や平田俊遠(ひらた としとお)らに討ち取られてしまいました(行宗は間一髪で脱出、頼朝公に合流)。
これで希義の血脈は尽きたかと思いきや、実は生前に俊遠の弟である平田経遠(つねとお)の娘(※)が希義と通じて身ごもっており、父と入れ替わるようにして男の子が誕生したのです。
(※)実は伯父の俊遠が貰おうと思っていたのに、横取りされてしまったから、それを妬んで姪婿となった希義に味方せず討った……なんてドラマがあったら面白いですね(恐らくはただ平家の威光を恐れて討ったのでしょうが)。
男の子は八郎と呼ばれ、やがて成長すると、父の盟友であった行宗が迎えに来ました。
「それがしは御父上にお仕えしていた夜須七郎と申す。故あって遅うなり申したが、これより鎌倉殿へお引き合わせ致そう」
かくして建久5年(1194年)、鎌倉へ連れられた八郎は頼朝公と対面。
「御殿、これなるは土佐冠者(とさのかじゃ。希義の通称)殿が忘れ形見にございまする」
「ふむ……?」
いきなり連れて来られた少年が「あなたの甥っ子ですよ」と言われてもなかなか信じられないのが人情というもの。最初は頼朝公も、滅ぼした平田一族の子とあって、なかなか受け入れられません。
しかし、その健気に生きてきた八郎の姿に、死に別れてしまった希義の面影でも見たのか、やがて頼朝公は八郎を迎え入れます。
「……されば、我がそなたの烏帽子親(※)となろう」
(※)えぼしおや。産みの親とも育ての親とも違い、元服する男児に烏帽子をかぶせて一人前の男とした親。時に実の親子以上に深い絆で結ばれることも。
「ありがたき仕合せ」
かくして八郎は元服、希望と改名して三河国吉良荘(現:愛知県西尾市)と土佐国吾川郡(現:高知県吾川郡)に領地を賜り、吉良八郎希望(きら はちろうまれもち)と称します。
吉良氏の子孫は代々栄え、やがて戦国時代、土佐国に勢力を伸ばした土佐七雄(しちゆう。七家の豪族)の一家として活躍するのでした。
終わりに
……と言うのが『吉良物語(きらものがたり)』の伝える吉良家の起源だそうですが、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』には源希望の記述がなく、その存在自体が創作ではないかとする説もあるようです。
確かに『吉良物語』は後世の文献なので信憑性は低いものの、それを言うなら『吾妻鏡』だって源平合戦当時のリアルタイムな史料ではなく、後から古伝をまとめた点において、信憑性が完璧というわけでもありません(※)。
(※)もちろん、他の史料と整合性がある部分が多いため、史料として通用しています。
要するに『吾妻鏡』の記録もれ≒源希望が実在した可能性も十分にありますが、いずれにしてもあまり華々しい活躍はしていないようです。
とは言うものの、仮に創作であったとしても、こういう物語が生まれた背景には希望の父・希義の血脈が絶えてしまうことを惜しんだ人々の声があったのでしょう。
ちなみに、室町時代初期の系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』では希義に源隆盛(たかもり)という長男がおり、その子として源貞義(さだよし)、源行縁(ゆきむね)、源道縁(みちむね)、源長縁(ながむね)、源縁能(むねよし)がいたそうですが、詳しいことは判っていません。
※名前の読み方については諸説あり、ここでは縁を「むね」としています。
いずれにしても希義が人々から慕われていたことが察せられ、希望もまた父ゆずりの人徳で、領民たちの暮らしを安んじ、名前の通り希望を与えたことでしょう。
※参考文献:
- 太田亮『姓氏家系大辞典 第2巻』姓氏家系大辞典刊行会、1934年11月
- 『郷土歴史大事典 高知県の地名』平凡社、1983年1月
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