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豊臣秀吉が発した刀狩令をわかりやすく紹介!その目的や時代背景などを解説【豊臣兄弟!】

戦国時代
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しんでいますか?

天下一統に向けて野心を露わにする羽柴秀吉(池松壮亮)を、懸命に支え続ける小一郎(仲野太賀)の奮闘ぶりが視聴者の胸を打ちます。

さて、秀吉が天下一統を進める上で実施した施策の一つに、刀狩令(かたながりれい)がありました。
これは一体どういう施策だったのでしょうか。

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刀狩令の内容は?

イメージ(AI生成)

一般に刀狩令と呼ばれるのは、天正16年(1588年)に秀吉が発した法令です。

その内容は以下の3ヶ条、ざっくりと現代語に意訳しましょう。

一つ、武士でない者が刀・脇指・弓・槍・鉄砲などの武器を持つことを禁ずる。余計な武器を持っていると喧嘩や争いに用いて被害を大きくしたり、謀叛や一揆に悪用されたりするからである。武装をたのんで役人に従わない者は処罰する。

一つ、よって先に挙げた武器は没収するが、その鉄は方広寺(京都大仏)の建立資材として活用する。差し出した武器が大仏殿の釘や鎹(かすがい)として、末永い功徳となる。武器を差し出した者は極楽往生間違いなかろう。

一つ、農民は農具だけ持って農業に励めば、余計な争いを起こしたり巻き込まれたりせずに暮らせる。つまり武器を取り上げるのは、そなたたちを愛しているからこそなのである。よってありがたく武器を差し出し、くれぐれも謀叛や一揆など企んではならぬぞ……。

とのことでした。まったく恩着せがましい限りですが、ともあれ「逆らえばただではすまさぬ」ことはわかっているので、みんな不承不承に従ったことでしょう。

刀狩令が発せられていない地域もあった?

イメージ(AI生成)

かくして発せられた刀狩令ですが、実際に発せられたのは畿内・九州など一部の地域に限られていました。

「じゃあ、例えば関東や奥州などでは、農民が武装したままでよかったの?」と思ってしまいますよね。しかし、そういうことではありません。

ひとたび発せられた禁令は、豊臣政権の影響力がおよぶすべての範囲内で有効とされました。

だから天正16年(1588年)時点で豊臣政権に服属していなかった地域についても、刀狩令の拘束力はちゃんと及んでいた(少なくとも例外とはされなかった)そうです。

例えば天下一統がなった天正18年(1590年)に石田三成へあてた朱印状でも、以前に発した刀狩令を奥羽(陸奥・出羽=東北地方全域)においても遵守させるよう通達していました。

かくして日本全国どこにいようと、武士でない者は武器の所持が原則禁止とされたのです。あくまで原則としては。

「原」刀狩令とは?

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秀吉はいわゆる刀狩令よりも前、天正13年(1585年)にも似たような命令を発していました。

同年3月から4月にかけて行った紀州攻めで、根来衆・雑賀衆に与した農民たちに対して第一条(武装放棄)と第三条(農業専念)を命じたのです。

これを歴史家の藤木久志は「原刀狩令(げん~)」と名づけました。一般的に知られた刀狩の原形と見なされたからでしょう。また同年6月にも高野山の僧侶に対して武装放棄と仏道専念を命令しています。

それで実際のところは?

イメージ(AI生成)

かくして全国各地で実施された刀狩令ですが、本当にすべての武器を没収した訳ではありません。

例えば山で鳥獣を狩猟するための槍や鉄砲、また鉈(なた)とも刀ともつかない刃物まで奪っては、生活に支障が出るケースも少なくないからです。

秀吉が意図したところは、露骨に「武装しているぞ」「何かあればすぐに蜂起するぞ」という態度をとらせないこと、ざっくり言えば武士と非武士の明確化でした。

実際の武器供出にしても、大名や武家が直接所領へ乗り込むのではなく、村落単位で集めさせる形が多かったと言います。

天正15年(1587年)の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)や天正18年(1590年)の牢人停止令などと相まって、次第に庶民たちは大人しくなっていったようです。

終わりに

今回は秀吉が発した刀狩令について、わかりやすく紹介してきました。

いつの時代も政権を覆す機運は下層階級から起こるものであり、秀吉はその芽を摘み取りたかったのでしょう。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、刀狩令がどのように描かれるのか、主人公の羽柴秀長がどのように関与するかが見どころとなりそうです。

※参考文献:

  • 鈴木眞哉『刀と首取り 戦国合戦異説』平凡社新書、2000年3月
  • 藤木久志『刀狩り 武器を封印した民衆』岩波新書、2005年8月
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