下位の者が上位の者を倒して既存の身分制度を脅かす……下剋上(げこくじょう)と聞くと、戦国時代をイメージしがちですが、言葉自体が鎌倉~南北朝時代ごろから使われており、しばしば叛逆行為に悩まされていたことが分かります。
今回紹介するのは室町時代前期、房総半島を舞台に暴れ回った馬加康胤(まくわり やすたね)。
これで「まくわり」と読みます。決して「ばか」ではないので、万が一「馬加」さんにお会いする機会があったら、間違いないようにしたいですね。
鎌倉御家人の子孫、享徳の乱に乗じて家督を乗っ取る
さて、馬加康胤は室町時代初期の応永5年(1398年)、下総国(現:千葉県北部)の守護大名・千葉満胤(ちば みつたね)の子として生まれました。
「千葉」の名字と名前の「胤」からピンとくる方もいるかも知れませんが、この千葉一族はかつて源頼朝(みなもとの よりとも)公に仕えた御家人・千葉常胤(つねたね)の子孫で、代々「千葉介」を称して来ました。
康胤は次男であるため家督は継がず、下総国千葉郡馬加村(現:千葉県千葉市)に館を構えて常陸国(現:茨城県)の豪族・大掾満幹(だいじょう みつもと)に養子入りします。
永享6年(1434年)には息子の馬加胤持(たねもち)も生まれ、勢力基盤を固めていた享徳3年(1455年)、世に言う「享徳の乱」が勃発。
鎌倉公方の足利成氏(あしかが しげうじ)が関東管領(鎌倉公方の補佐役)であった上杉憲忠(うえすぎ のりただ)を暗殺、鎌倉公方と関東管領の勢力争いが激化したのでした。
「千葉殿、我らにお味方下され!」
「いいや、こちらにこそ理がございますれば!」
(室町幕府当局は、大義なく憲忠を討った鎌倉公方に非ありとして関東管領を支援)
千葉氏には鎌倉公方(後に鎌倉を追われ、古河公方に)と関東管領の双方から助力を求められましたが、どちらに味方すべきかで家中が分裂してしまいます。
当主の千葉胤直(たねなお。康胤の甥)は重臣の円城寺尚任(えんじょうじ なおとう)と共に関東管領に味方するべく主張する一方、康胤は重臣の原胤房(はら たねふさ)と共に鎌倉公方への加勢を譲りません。
結局、説得を諦めた原胤房は千葉胤直と千葉胤宣(たねのぶ)父子を攻め、康胤もこれに乗じて円城寺尚任、援軍に駆けつけた大掾頼幹(よりもと)ともども滅ぼしました。
同じ千葉一族の手で葬り去られる
「よし、これで千葉家は我らがものぞ!」
かくして千葉宗家の第19代当主となった康胤でしたが、室町幕府がそんな叛逆を黙認するはずもなく、美濃国郡上郡(現:岐阜県郡上市)篠脇城主の東常縁(とう つねより)を派遣。
この東常縁も同じ千葉一族(※常の字に、千葉常胤とのつながりを感じます)ということで、降伏するよう説得しやすいと考えたのか、あるいは一族内で責任をとらせようとしたのかも知れません。
「同じ千葉一族で争って何とする、ここは一つ力を合わせ、将軍家の指図など受けず気ままに暮らそうじゃないか!」
そんな誘いに応じることなく東常縁は馬加村へ攻め込み、康胤らは敗走。
康正2年(1456年)6月12日に胤持、9月9日に原胤房が討たれ、上総国まで逃げ延びた康胤についても11月1日、村田川のほとり(現:千葉県市原市)で討ち取られたのでした。
エピローグ
こうして馬加氏は2代で滅亡したのですが、一説には康胤の庶子であった岩橋輔胤(いわはし すけたね)が千葉氏の家督を継いだとも言われ、その子孫が続いています(下総千葉氏)。
一方、康胤に滅ぼされた胤直の弟・千葉胤賢(たねかた)の息子たちは武蔵国(現:東京都と埼玉県)へ逃れて御家を存続、武蔵千葉氏として命脈をつなげました。
現在、村田川に近い無量寺(千葉県市川市)に康胤・胤持父子の墓と伝えられる五輪塔が残され、また大須賀山(千葉県千葉市)には康胤の首塚が鎮座しています。
足を運ぶ機会があったら、かつて房総半島を舞台に暴れ回った梟雄の野望に思いを馳せたいものです。
※参考文献:
- 石橋一展 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 下総千葉氏』戒光祥出版、2015年10月
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