かつて鎌倉武士が「一所懸命(いっしょけんめい。ひとところに命をかける)」と自分の所領を守ったように、領地というのは単に自分や家族の住処にとどまらず、生活や奉公に必要な収入源であると共に、自分の実績や誇りを示すものでもあり、まさに武士の生命線と言えました。
だから少しでも多い(面積は広く、経済性は高い)方がいいのですが、そんな貴重な領地だからこそ、時として「使いどころ(使い方)」も求められたのです。
領地を使う?と聞いてもピンと来ない方も多いでしょうが、今回は領地の上手い使い方を、戦国時代で屈指の義将・石田三成(いしだ みつなり)に学びたいと思います。
「召し抱えたくば10万石……」渡辺勘兵衛の要求に、三成の答えは?
かつて石田三成が羽柴秀吉(はしば ひでよし。後の豊臣秀吉)の小姓として500石の領地を与えられていた時のことです。
渡辺勘兵衛(わたなべ かんべゑ。別名:新之丞)という豪傑がおり、秀吉やそのライバル・柴田勝家(しばた かついえ)らが召し抱えようと、2万石という広大な所領を約束しても
「いいや、それがしは10万石でなければ仕官してやらんぞ!」
と豪語していました。流石に秀吉も勝家も、また他の戦国大名たちも、そこまでは出せません。
(あの勘兵衛を召し抱えることが出来れば、お屋形様=秀吉によりいっそう奉公ができる。何としてでも仲間にしたい……)
しかし、三成は500石しか持っていません。あと9万9,500石はどうしたかと言うと……
「出世払いでお願いします!」
三成は勘兵衛にこう申し出ました。
「今、それがしの持っている領地はたったの500石。このすべてをそなたに差し上げよう。後の9万9,500石は分割払い、もしくはそれがしが100万石の大名となった暁に一括払いと致したい」
この若造、面白いことを吐(ぬ)かしおる……呆れた勘兵衛は尋ねます。
「そんなことをしたら、そなたは食うにも困ろうが。生計はいかがする」
「渡辺殿の、食客(しょっかく)にして下され!」
食客とは要するに居候。勘兵衛を召し抱えるのではなく、勘兵衛に養って欲しいと言うのです。
「そなた、何ゆえそこまで……」
「お屋形様に、よりよき奉公をしたき一心にございまする!」
広い領地を得るのも、優秀な家臣を仲間にするのも、すべては秀吉に奉公するため……たとえ自分が居候となっても、それで主君に利するのであれば、名誉や財欲など要りはしない……そんな三成の心意気に、勘兵衛は惚れてしまいました。
「相分かった。500石で石田殿にお仕え申そう。これより石田殿が100万石の大名となられるまで、それがしの所領は500石で十分じゃ」
以来、勘兵衛は数々の戦場で武勲を立て、お陰で三成は順調に出世するも、勘兵衛は
「100万石の大名となられるまでは、500石以上の領地は要り申さぬ」
と加増を辞退し続けます。
「勘兵衛よ、いつもすまんのぅ」
「いえいえ。左様に思し召されるのであれば、早う100万石どりの大大名とならせませ。がはは……」
エピローグ
そんな勘兵衛の最期は慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原合戦。
ここでも敵の猛将・後藤又兵衛(ごとう またべゑ。基次)と一騎討ちを演じるなど一騎当千の大活躍を魅せますが、武運拙く敗れ去ってしまいました。
「殿、ここはそれがしが防ぎ申すゆえ、早う落ち延びられませ……」
すでに満身創痍、ここを死に場所と思い定めた勘兵衛は、三成に逃げるように訴えます。
「最早これまで……そなたの10万石も、夢となってしもうたが……今までよう仕えてくれた。礼を申す」
互いに手をとりあい、嘆き悲しむ三成に、勘兵衛は笑って言いました。
「いえいえ、殿にお仕え申して、それがしは9万9,500石ぶん以上の夢を見せていただき申した。こちらこそ、篤く御礼申し上げる」
かつて三成が惜しみなく差し出した500石が、二人に魅せてくれた大きな夢。
必要であれば大切なものを差し出すことが、時にその額面以上の価値をもって活かされることを、後世の私たちに伝えてくれる……そんな三成らしく、気持ちの良いエピソードでした。
※参考文献:
- 安藤英男 編『石田三成のすべて』新人物往来社、2018年8月
- キッズトリビア倶楽部 編『1話3分 「カッコいい」を考える こども戦国武将譚』えほんの杜社、2020年12月
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