ローカルネタで恐縮ながら、神奈川県内16ヵ所に展開している蕎麦チェーン店「味奈登庵(みなとあん)」のファンです。
ここの蕎麦は安くて量が多く、コシが強めでおススメなのですが、今回の話はそこではなく、蕎麦屋さんの屋号によく使われている「庵」について。
和食屋テイスト、特別感を引き立ててくれる屋号の「庵」、特に蕎麦屋の「庵」はいつごろから使われ始めたのでしょうか。
今回はそれを調べたので、紹介したいと思います。
「~庵」の屋号は江戸時代中期から
蕎麦屋の屋号に「庵」が使われた(史料で確認できる限り)最古の例は大坂道頓堀の「寂称庵(じゃくしょうあん)」。寛延3年(1750年)ごろに出版された洒落本『烟花漫筆(えんかまんぴつ)』に登場します。
……かのうどんの粉をあたへし(与えし)今の寂称庵にて、絶ずそば切にて諸人のおとがひ(頤、あご)をゆるくす(揺るぐす、揺るがす)……
※『烟花漫筆』より。
※「あごを揺るがす」とは、あまりの美味さに何度も噛みしめたくなったのでしょうか。
その後、天明7年(1787年)版のグルメ案内誌『七十五日(しちじゅうごにち)』に紹介された江戸の麺類店65店のうち、屋号に「庵」を使っていた蕎麦屋は以下の4店。
一、目黒の紫紅庵(しこうあん。現:東京都目黒区)
一、茅場町の雪窓庵(せきそうあん。現:東京都中央区)
一、本所の東翁庵(とうおうあん。現:東京都墨田区)
一、鎌倉河岸の東向庵(とうこうあん。現:東京都千代田区)
いずれも現在は存続していませんが、そもそも蕎麦屋が屋号に「庵」をつけ始めたのは、称往院(しょうおういん。現:東京都世田谷区)に由来するそうです。
称往院は戦国時代末期の慶長元年(1596年)に開山され、元は湯島(現:東京都文京区)にあったのが明暦の大火(明暦3・1657年1月18~20日)で焼けたため浅草(現:東京都台東区)へ移転。
(※後に大正12・1923年9月1日の関東大震災で倒壊、現在地に移転しました)
この頃、境内に道光庵(どうこうあん)という塔頭があり、そこの庵主が信州出身だからか大の蕎麦好き、自身で打つのも達人並みでした。
そんな庵主が人々に蕎麦を振る舞ったところ、これがたちまち評判を呼んで有名になり、念仏よりも蕎麦を目当てに「そば切り寺」は大繁盛。
「これじゃあ蕎麦切りが忙しすぎて、念仏修行どころじゃないわい」
さすがに本末転倒だからと当局は蕎麦打ちおよび振る舞いを禁止し、境内には「蕎麦禁制の碑」が建立されたのでした。
「不許蕎麦入境内(意:蕎麦の境内に入るを許さず)」
「地中製之而乱当院之清規故(意:境内で蕎麦を打って当院の規律を乱すゆえ)」
普通は「不許葷酒入山門(くんしゅ、さんもんにいるをゆるさず。意:酒と生臭物を山門に入れるな)」などと書くところ、よほど蕎麦ぶるまいに懲りたのでしょうね。
終わりに
その後、道光庵の人気にあやかろうと蕎麦屋は次々と「庵」を屋号につけるようになり、文化年間(1804~1818年)には最盛期を迎えました。
現代でも多くの蕎麦屋さんが「~庵」を屋号に名乗っており、蕎麦を目当てにやってくる私たちの期待感を高めてくれます。
※参考文献:
- 新島繁『蕎麦の事典』講談社学術文庫、2011年5月
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