13代将軍・家定の正室。お万の方を彷彿とさせる美貌の持ち主。次期将軍を巡る継承問題を内部から操るため薩摩・島津家から送り込まれる。聡明さや物腰の柔らかさを持つ。徳川の世を途切らせまいと奮闘する家定の心情を理解し、いつしか両想いとなり結ばれる。家定亡き後は、14代将軍・家茂の後見人として支えてゆく。
※天璋院/胤篤役 福士蒼汰さん、和宮役 岸井ゆきのさん、徳川家茂役 志田彩良さん「大奥 シーズン2 幕末編」のキャスト
NHKドラマ10「大奥 season2 幕末編」の新キャストが発表され、シーズン1で「お万の方」こと万里小路有功(までのこうじ ありこと)を演じた福士蒼汰が再登板。
よほど人気だったのでしょうね。筆者もファンなので、まことに嬉しい限りです。
さて、福士蒼汰が演じるのは天璋院(てんしょういん)こと胤篤(たねあつ)。そのモデルは大奥ファン・幕末ファンならお馴染みの天璋院篤姫(てんしょういん/あつひめ)ですね。
果たして彼女がどんな生涯をたどったのか、紹介したいと思います。
篤姫の輿入れ
篤姫は江戸時代末期の天保6年(1836年)12月19日、島津忠剛(しまづ ただたけ)と幸(ゆき。島津久丙娘)の間に誕生しました。幼名は一(いち、かづ。後に市)。18歳となった嘉永6年(1653年)、従兄に当たる本家の薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の養女となります(以下、篤姫)。この頃から、篤姫を徳川将軍家に嫁がせる計画がありました。
同年8月21日、生まれ故郷の薩摩を旅立って江戸へ移り、江戸藩邸に入ります。
やがて21歳となった篤姫は安政3年(1856年)、右大臣の近衛忠煕(このゑ ただひろ)に養女入り。ここで近衛家に仕える幾島(いくしま)と出会い、将軍家の御台所にふさわしい教育を受けるのでした。
そして同年11月に第13代将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ)に輿入れ、大奥に入ります。以来、生涯にわたって故郷の薩摩へ帰ることはありませんでした。
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短い結婚生活
結婚すると生活習慣が大きく変わるのは今も昔も変わりませんが、篤姫も色んなギャップに直面したことでしょう。
そんな一つにペットの問題がありました。愛犬家であった篤姫は、沢山の狆(ちん)を飼っていたのですが、夫の家定は大の犬嫌い。そこで仕方なく愛犬たちを手放した(さすがに殺処分ではなく、実家等に預けたと思われる)のですが、代わりに猫を飼いました。
サト姫と名づけられた猫のエサ代は年間25両。現代の貨幣価値でおよそ150〜250万円と言ったところでしょうか。専用の御膳が用意され、食事の時は篤姫と一緒。他にも首輪は紅絹に銀の鈴をつけたものがつけられ、毎月交換したと言います。寝る時は上等な縮緬(ちりめん)を敷いた竹かごが用意され、まさに至れり尽くせりだったようです。
しかし肝心の夫婦仲についてはあまり円満ではなかったのか、子宝には恵まれないまま安政5年(1858年)7月6日。篤姫は23歳で家定に先立たれてしまい、将軍家は紀州派の徳川家茂(いえもち)が継いだのでした(篤姫たちは水戸派の一橋慶喜を推していました)。
また家定の後を追うようにして、同じ7月16日に養父の島津斉彬も世を去ります。
篤姫は落飾(出家)して天璋院(天璋院殿従三位敬順貞静大姉)と号しました(以下、天璋院)。
大政奉還により、江戸幕府が滅亡
同じ安政5年(1858年)11月22日には朝廷より従三位に叙せられ、大御台として家茂を見守る天璋院。
彼女が27歳となった文久2年(1862年)に公武合体政策の一環として、皇室より和宮(かずのみや)こと親子内親王(ちかこ ないしんのう)殿下が家茂へ降嫁されました。
嫁いで来られた当初は公家文化と武家文化の衝突があり、姑に当たる天璋院への書状に「様」をつけないなど、色々と悶着が起こったようです。
これらの事から天璋院と和宮の嫁姑バトルが噂されましたが、しかし後に両者は和解。日本国のため、共に徳川家を支えたのでした。
やがて慶応2年(1866年)に家茂が世を去ると、かねて推していた水戸派の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ。徳川慶喜)が念願の第15代将軍となります。
当時、討幕の機運が高まっていた朝廷及び尊皇派に対して、慶喜は世に言う大政奉還を実行しました。
時に慶応3年(1867年)10月14日、これをもって天下の政権を朝廷に返上、同年12月9日には武家の棟梁である征夷大将軍の職を辞したのです。
かくして慶長8年(1603年)に徳川家康(いえやす)が征夷大将軍となって開いた江戸幕府が、264年の歴史に幕を下ろしたのでした。
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戊辰戦争により、大奥を出て江戸を立ち去る
幕府がなくなった以上、これで戦う理由がなくなりめでたしめでたし……と思っていたのも束の間、薩摩藩・長州藩を中核とする討幕派は断固として徳川討伐を強行。かくして慶応4年(1868年。9月1日から明治元年)1月、世に言う戊辰戦争の火ぶたが切って落とされたのでした。
徳川方(旧幕府軍)の総大将として一度は大阪に赴いた慶喜。しかし鳥羽・伏見の戦いでは将兵を見捨てて江戸へ逃亡。上野寛永寺に謹慎して恭順の意を示します。
こうなると旧幕府軍はめいめいで戦い、各個撃破されていくのですが、そんな中で天璋院は和宮と共に朝廷や薩摩藩に対して慶喜の赦免を嘆願しました。必死の願いが功を奏したのか、慶喜は助命されて江戸城を明け渡し(無血開城)、水戸藩弘道館や駿河宝台院を転々とします。
天璋院も慶喜に従い、4月には新政府によって従三位の位を剥奪されてしまいました。
やがて明治2年(1869年)に慶喜の謹慎が解かれると、東京千駄ヶ谷にあった徳川宗家邸に暮らすようになります。
大奥時代とは異なり生活は困窮していたらしく、見るに見かねた島津家が経済援助を申し出るも、天璋院はこれを謝絶。あくまで自分は徳川家の人間であり、幕府を滅ぼした仇敵の世話にはならぬと凛然な態度を貫きました。
遺産はたった6円
苦しい生活の中、徳川十六代宗家を継いだ徳川家達(いえさと。慶喜の養子)を養育していた明治10年(1877年)。和宮が箱根の塔ノ沢で療養していると聞いた天璋院は、さっそく彼女を見舞いに行きます。
これが天璋院の生涯における唯一の旅行(※私用での移動)となったそうですが、到着した時点で和宮は薨去。彼女は嫁を悼む和歌を贈ったのでした。
君が齢(とし) とどめかねたる 早川の
水の流れも うらめしきかな
【意訳】箱根を流れる早川の水が、あなたの命を流してしまった。実に恨めしいことだ。
そして明治16年(1883年)11月13日に脳溢血で倒れ、意識が戻ることなく11月20日に49歳で世を去ったのでした。
天璋院が持っていた財産はわずかに3円。現代(平成~令和初期)の貨幣価値でおよそ6万円ほどだそうです。これは明治維新後、私財を投げ打って大奥関係者の就職や縁組に尽力していたためとのことで、大御台所としての矜持が感じられます。
葬儀に際しては1万人もの人々が集まり、上野寛永寺にある夫の墓と隣り合わせで埋葬されました。
人々から慕われていた天璋院の遺徳を讃え、新政府から再び従三位が贈られたということです。
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【天璋院篤姫 基礎データ】
天保6年(1836年) | 薩摩で誕生(1歳) |
嘉永6年(1853年) | 島津斉彬の養女になって薩摩を離れ、江戸藩邸に入る(18歳) |
安政3年(1856年) | 近衛忠煕の養女となり、徳川家定に嫁ぐ(21歳) |
安政5年(1858年) | 家定が急死、落飾して天璋院と称する(23歳) |
文久2年(1862年) | 和宮が徳川家茂に降嫁する(27歳) |
慶応2年(1866年) | 家茂が急死、徳川慶喜が第15代将軍となる(31歳) |
慶応3年(1867年) | 慶喜が大政奉還を実行する(32歳) |
慶応4年(1868年) | 戊辰戦争。慶喜が降伏、天璋院らは助命を嘆願する(33歳) |
明治10年(1877年) | 和宮の見舞いに箱根を訪ねる(42歳) |
明治16年(1883年) | 脳溢血で世を去る(49歳) |
その他データ
名 前 | 一(いち、かづ)または市(幼名) |
⇒ 源篤子(みなもとの あつこ。島津斉彬の養女時代) | |
⇒ 藤原敬子(ふじわらの すみこ。近衛忠煕の養女時代) | |
⇒ 篤君(あつぎみ。家定との結婚時代) | |
⇒ 天璋院殿従三位敬順貞静大姉(通称:天璋院。家定と死別後) | |
⇒ 徳川天璋院(とくがわ てんしょういん。明治維新後の戸籍名) | |
出 生 | 薩摩国鹿児島城下上竜尾町(現:鹿児島県鹿児島市) |
死 没 | 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村(現:東京都渋谷区) |
死 因 | 脳溢血 |
墓 地 | 上野寛永寺(現:東京都台東区) |
終わりに
【福士蒼汰さん コメント】
多くの方々から愛されている「大奥」に再び参加できることを大変嬉しく思っております。シーズン1では万里小路有功を演じさせていただき、大奥始まりの総取締として家光を支えました。この度は、天璋院・胤篤として大奥の終わりを見守りたいと思います。今回の役どころは、非常に繊細で難しいものだと思っています。薩摩の人間でありながら、家定・徳川のために無垢に考え行動する。聡明さと人情を併せ持つ彼を、深く演じていきたいです。家定との心の機微を丁寧に演じ、瀧山と二人三脚で支えていけるよう努めてまいります。”お万の方の再来”とも言われた彼の人生をいかに歩めるか、今からとても楽しみです。
※天璋院/胤篤役 福士蒼汰さん、和宮役 岸井ゆきのさん、徳川家茂役 志田彩良さん「大奥 シーズン2 幕末編」のキャスト
以上、大奥から徳川家の終焉を見届けた天璋院篤姫の生涯をたどってきました。49歳という若さでありながら、実に波乱万丈でしたね。
コメントにもある通り、薩摩に生まれながらあくまでも家定ひいては徳川家のために尽力した生涯は、人々の胸を打ちます。
果たしてNHKドラマ10「大奥」では、福士蒼汰がどんな天璋院胤篤を演じてくれるのか、今から秋が待ち遠しいですね!
※参考文献:
- 芳即正 編『天璋院篤姫のすべて』新人物往来社、2007年10月
- 畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波新書、2007年12月
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