New! 秀吉に対抗した根来衆とは?

【歴史旅】畠山重忠が最期を遂げた鶴ヶ峰(横浜市旭区)で「武士の鑑」を偲ぶ【現地取材】

歴史旅
スポンサーリンク

かつて源頼朝の旗揚げに加わって鎌倉幕府の樹立に貢献しながら、無実の濡れ衣を着せられて非業の最期を遂げた畠山重忠(はたけやま しげただ)。

どこまでも強く、まっすぐな生き方を貫いた重忠の死は、重忠を滅ぼした北条義時すら涙せずにはいられなかったと言います。

今回はそんな重忠が最期を遂げた鶴ヶ峰(横浜市旭区)を訪れました。この記事が重忠の遺徳を偲ぶよすがとなれば幸いです。

スポンサーリンク

畠山重忠公碑

交差点に面する案内表示。筆者撮影🄫歴史屋
この草生した奥に石碑がある。筆者撮影🄫歴史屋
  • 所在地:神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町1-1
  • 参 拝:24時間立入り可能

相鉄線「鶴ヶ峰駅」から徒歩7~8分(500~600m)、朝日区役所のはす向かい「鶴ヶ峰駅入口」交差点に面しています。

タイミングによっては草生しているため、うっかりしていると見逃してしまうかもしれません。

かつてこの辺りで重忠はじめ畠山主従135騎と、北条義時率いるおよそ1万騎の大軍が死闘を繰り広げたそうです。

草地の奥へ進むと石碑が建立されており、そこには畠山重忠の功績と悲劇的な最期が刻まれていました。

畠山重忠公碑。筆者撮影🄫歴史屋
畠山重忠公碑。背後に帷子川が流れている。筆者撮影🄫歴史屋

【案内看板】

畠山重忠公碑 Hatakeyama Shigetada Memorial

鎌倉時代の武将・畠山重忠公は、元久二年(一二〇五年)六月にこの地で戦死しました。この碑は、重忠公没後七五〇年を迎えた昭和三〇年(一九五五年)六月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。

【さかさ矢竹の由来】

鎌倉武士の鑑 畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箟(やの)二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。
この度重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。

平成十七年六月二十二日
横浜旭ロータリークラブ

畠山重忠公首塚

住宅街の中に鎮座する畠山重忠公の首塚。筆者撮影🄫歴史屋
  • 所在地:神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰1-3-7
  • 参 拝:24時間立入り可能

愛甲三郎季隆(あいこうの さぶろうすえたか)の矢に斃れ、討ち取られた重忠の首級が祀られています。

案内看板によるとはじめは南向きに祀られていたのが、後に西向きへ祀り直されました。南を向いているのは「君主南面す」の思想によるものでしょう。

それが西向きへ改められたのは、付近の土地開発による影響か、あるいは西方浄土思想に基づくものかもしれません。

近くに首を洗った井戸跡もあると聞きましたが、今回は見つけられませんでした。

いつでも参拝できるが、深夜は暗くて怖そう。筆者撮影🄫歴史屋

【案内看板】

畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。
ここは、重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたそうです。

平成二十二年二月吉日 設置

旭区誕生40周年記念事業実行委員会
旭区観光協会

六ツ塚(薬王寺・畠山霊堂)

薬王寺(畠山霊堂)。筆者撮影🄫歴史屋
  • 所在地:神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2-14-1
  • 参 拝:不明(※常識的に9:00~15:00くらいがよいかと)

境内に畠山重忠とその一族郎党たちを祀った六つの塚が鎮座していました。畠山重忠を祀る塚が一番奥に、そして境内狭しと残り五つの塚に一族郎党たちが祀られています。

寺院に参拝する礼儀として、まずは挨拶として本堂にお参りするのがよいでしょう。

また門扉などがないため、いつでも立ち入ることはできます。しかし本堂にご住職様がたがいらっしゃるかも知れないため、訪問に常識的な時間帯の参拝がおすすめです。

まずは本堂に参拝・挨拶したい。筆者撮影🄫歴史屋
奥にあるのが畠山重忠公の塚。筆者撮影🄫歴史屋
重忠と共に討死した一族郎党たちも、ちゃんと祀られている。筆者撮影🄫歴史屋

【案内看板】

六ツ塚
おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている
その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は管谷の館(現埼玉県比企郡)を六月十九日発し鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った、公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した、この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったこと無実が事実となり永久に汚名を着ると諭した上、午の刻(正午)より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党一三四騎とともに玉砕した、時は元久二年六月二十二日(一二〇五年、今より七六八年前)公は四十二才、この地に主従一同と六ケ所に葬り代々伝えて六ツ塚と言う。

昭和四十八年六月二十二日
旭区役所
旭区観光協会

【畠山霊堂創建記念碑】

霊堂建立の由来
武州鶴ヶ峰ハ智仁勇名将秩父庄司畠山重忠公及重保重秀一族郎従百二十何名カ北條氏ノ奸計ニヨリ冤死セル古戦場ナリ時ニ元久二年六月二十二日 六ツ塚ハ自刃セル一族ヲ埋メシ塚ナリ霊堂ハ重忠公一族ヲ祭祀シ広ク公ノ精神ヲ顕彰シ史蹟保存ノ為ニ陸軍大佐栗原勇殿発願ニヨリ十方各位ノ協力ヲ得テ創建セラレタルモノナリ

昭和三十九年六月二十二日
鶴大山重藤寺住職 阿部眞龍
建碑施主 葛籠貫藤吉

現代も敬愛される重忠公

横浜市旭区のゆるキャラ「あさひくん」の重忠バージョン。筆者撮影🄫歴史屋
  • 元久二年(1205年)6月22日 畠山重忠が討死する
  • 昭和30年(1955年)6月22日 畠山重忠公碑が建立される
  • 昭和39年(1964年)6月22日 畠山霊堂(薬王寺)が創建される
  • 昭和48年(1973年)6月22日 六ツ塚の案内看板が設置される
  • 平成17年(2005年)6月22日 さかさ矢竹が再び植えられる
  • 平成22年(2010年)2月吉日 首塚の案内看板が設置される

今回はその強さと真っすぐな生き方を全うしたことから武士の鑑(鎌倉武士の鑑/坂東武者の鑑)と称された畠山重忠ゆかりの地を訪問してきました。

最近では令和4年(2022年)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中川大志が演じたことで話題となり、人々の注目も集まっているそうです。

畠山重忠の崇高な精神と潔い生き様は、私たち現代の日本人が忘れつつある何かを思い出させてくれるかもしれません。

皆さんも、近くに寄られることがあれば、是非ともお訪ね頂けたらと思います。

タイトルとURLをコピーしました