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【鎌倉殿の13人】最愛の許婚を父に奪われた悲劇のヒロイン・大姫の生涯

大河ドラマ
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源頼朝(みなもとの よりとも)の長女・大姫(おおひめ)。伊豆での流人時代、北条政子(ほうじょう まさこ)との間に生まれたこの娘は、果たしてどんな生涯をたどったのでしょうか。

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あまりにも短い幸福な時代

大姫が誕生したのは治承2年(1178年)、挙兵の2年前とされています。大姫とは長女の意味で実名は不詳。一説には一幡(いちまん)とも言われますが、はっきりしたことは分かっていません。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では自ら「大姫でございます」と名乗っていました。しかしこれは「私は長女です」と言っているのと同じ。加えて姫とは基本的に未婚女性に対する敬称ですから、ちょっと違和感がありますね。

他の女性たち(例:阿波局⇒実衣、牧の方⇒りく、比企能員の妻⇒道、等)と同じくオリジナルの可愛い名前をつけてあげたらよかったのに……と思います。

清水冠者義高。歌川芳虎筆

ともあれ大姫が6歳となった寿永2年(1183年)、頼朝は木曽義仲(きそ よしなか)からその嫡男である清水冠者義高(しみず かじゃよしたか。木曽義高)を人質にとりました。

表向きは大姫の許婚として鎌倉へやってきた義高は当時11歳。二人は早くも意気投合、幼な心に幸せな未来を思い描いていたことでしょう。

しかし、幸せな日々は長く続きません。

木曽義仲が逆賊となってしまったため、頼朝は異母弟の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らに命じてこれを討たせます。

時に寿永3年(1184年)1月に義仲が討ち取られると、父の仇をとるべく義高が謀叛を起こすかも知れません。

なので頼朝としては先手を打って(暗殺して)おきたいところですが、弱い者を一方的に殺しては外聞が悪い。

そこで頼朝は「義高を討つ」という情報をあえて流し、大姫を通じて義高に脱走を決意させます。

父が自分を騙そうなどとは思わない大姫は当然これを義高に伝え、鎌倉からの脱出を手引きしたのでした。

義高の脱走計画はこうです。まず自分の寝床に、側近で同い年の海野幸氏(うんの ゆきうじ)を寝かせて「義高が逃げていない」ように偽装します。

脱出する義高と手引きする大姫。歌川国貞筆

義高自身は大姫の衣裳を借りて女装し、侍女たちと一緒に御所を脱出。あらかじめ離れたところにつないでおいた馬に乗って一気に脱走。

馬の足音で気づかれないよう、蹄にはしっかりと綿をくるんでおく念の入れようです。

果たして計画は成功……というより、頼朝たちがあえて見逃したのは言うまでもありません。

頼朝「冠者殿(義高)が逃げたぞ!きっと謀叛を企んでいるに違いない。追えーっ!」

どうか無事に逃げて欲しい……大姫の必死な願いも虚しく、義高は4月26日に入間河原で討ち取られます。その首級は討ち取った藤内光澄(とうない みつずみ)によってもたらされました。

そのことが大姫に知られてしまい、彼女は水も飲めないほど憔悴してしまいます。

政子「殺すなとは言いません。しかしまだ七つの子供に対してあまりにも配慮のない、むごいお仕打ち……許せません!」

愛娘の悲しみに心を痛める政子は激怒。反対する頼朝を押し切る形で6月27日に光澄を梟首(きょうしゅ。斬首の上さらし首)としたのでした。

何とかよい再婚先を……頼朝と政子の努力も虚しく

元から身体が弱く、義高を喪ってからの大姫は基本的に病床生活を送ることになります。

さすがに親として心配したのか、頼朝は義高のために追善供養や祈祷など様々な手を尽くしましたが、一向に効果は上がりませんでした。

とは言え頼朝にとっては政略結婚に利用できる大切な手駒ですから、そのまま寝かせておく気にはなれません。

義高の死から間もない元暦元年(1184年)8月、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は頼朝に対して大姫を摂政の近衛基通(このえ もとみち)に嫁がせてはと提案します。

近衛基通(普賢寺関白)。『天子摂関御影』より

近ごろ東国で台頭している頼朝とのコネクションを作ろうとしていたのですが、頼朝は近衛基通よりも九条兼実(くじょう かねざね)を摂政に推したかったためこれを辞退。

仮に乗り気だったとしても、つい数か月前に許婚を喪った愛娘に対して縁談(それも20歳近く年上)を持ちかける気にはなれなかったでしょう。

それから10年が過ぎた建久5年(1194年)8月、頼朝は政子の承諾を得て、甥(妹の子)である一条高能(いちじょう たかよし)との縁談を大姫に持ちかけます。

高能なら大姫の2つ上だから許容範囲のはず……と思ったかはともかく、大姫にとって問題はそこではありません。

……及如然之儀者。可沈身於深淵……

【意訳】そんなことをするなら、身投げします!

※『吾妻鏡』建久5年(1194年)8月18日条

義高でなければ、どれほど素敵な男性であろうと絶対に嫌だ……断固たる拒絶を前に、そろそろいい相手を見つけて幸せになって欲しいと願う政子も諦めざるを得ませんでした。

しかし、頼朝はまだ諦めません。その辺の貴族(高能)でダメなら後鳥羽天皇(ごとばてんのう)とならどうだ……当時の女性たちにとって、皇后・皇妃(皇后は正室、皇妃は側室)になるというのは、これ以上ないシンデレラ・ストーリーです。

でも、そういう身分や条件などの問題ではないのです。たとえ天皇陛下だろうと義高でなければ嫌だし、どんなに貧乏であろうと義高でありさえすれば、それ以上は望みません。

病床の大姫。菊池容斎『前賢故実』より

そんな大姫は建久8年(1197年)7月14日に20歳で世を去ります。どこまでも義高への愛情と貞操を貫いての最期でした。

こうして大姫の入内(じゅだい。内裏へ入ること、転じて天皇陛下との結婚)工作は失敗に終わります。

頼朝としては親・鎌倉派であった九条兼実を切り捨ててまで土御門通親(つちみかど みちちか)や丹後局(たんごのつぼね)に接近したのに、利用されるだけされて反・鎌倉派に力を与える結果となってしまいました。

大姫の墓は常楽寺(現:鎌倉市大船)にあり、彼女の守り本尊であった地蔵が岩船地蔵堂(現:鎌倉市扇ガ谷)に祀られています。

終わりに

以上、大姫の生涯をごくざっくりと辿って来ました。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、難波ありさ(~幼児期)⇒落井実結子(少女期)⇒南沙良(成人期)と3名が演じており、その成長を丁寧に追っていくことが予想されます。

義高との別れだけでなく、同じく頼朝に最愛の伴侶を奪われた静御前(しずかごぜん)との出逢いなども丁寧に描写されていくことでしょう。

これから三谷幸喜が大姫をどのようき描き上げるのか、これからも注目ですね!

※参考文献:

  • 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
  • 保立道久『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年8月

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