令和4年(2022年)から放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
タイトル通り鎌倉幕府にあって将軍を補佐する13人の合議制を描いた物語ですが、戦国時代や幕末維新に比べて歴史ファンでも愛好家の少ない時代(※筆者調べ、および主観による)なので、少しでも平安~鎌倉時代ファンが増えてくれると嬉しいです。
さて。それはそうと鎌倉武士と聞いて、皆さんは誰を思い浮かべますか?あるいは誰が好きですか?
そう聞いてみると、平家討伐に最大の功績を上げたとされる源義経(みなもとの よしつね)の人気が圧倒的に高いです。
しかし他の御家人についてはあまりピンと来ないようで、この「魅力的≒有名なキャラが少ない」ことが、鎌倉時代の不人気要因かも知れません。
しかし実際にはそんな事もなく、実に個性豊かで魅力的な武士たちが、戦国時代に負けず劣らずたくさんいたのです。
ここではそんな一人、かつて「鎌倉武士の鑑」と称えられた畠山重忠(はたけやま しげただ)を紹介。
文武両道で清廉潔白、かつ名門の御曹司という文句なしのエリート。
権力を好まず鎌倉幕府の政権中枢から距離を置き(そのため「鎌倉殿の13人」には入っていません)、そして最期は実力を恐れた者たちの謀計で滅ぼされた……という悲劇の英雄です。
今回はその畠山重忠の文武の武にフォーカスして、その怪力ぶりを見せつけたエピソードを列挙していきたいと思います。
宇治川の合戦にて、巴御前と一騎討ち!
時は寿永3年(1184年)1月20日、平家を京都から追い払ったはいいものの、乱暴狼藉が過ぎて「平家の方がまだマシだった」と言われた木曾義仲(きその よしなか)を討伐するべく上洛した重忠たち(源氏方)。
ここで負けたらもう後がない……必死に抵抗する木曾勢の中から現れた一人の女武者、彼女こそは武勇名高き巴御前(ともえごぜん)です。
一騎討ちを挑まれた重忠はこれに応戦。けっきょく勝負はつかなかったものの、互いに組んずほぐれつする中で、巴御前の着ていた鎧の大袖を引きちぎったと言います。
鎧の大袖は小札(こざね。パーツ)を糸で何重にも縅して(おどして=連結して)いるため、それを引きちぎるのは、容易なことではありません。
巴御前を倒せなかった腹いせか、あるいは「決して自分の力が弱かった訳ではない」という周囲へのアピールだったのかも知れませんね。
郎党をぶん投げて宇治川の対岸へ
この戦いに先立って、重忠の郎党である大串次郎重親(おおくしの じろうしげちか)が宇治川を渡る最中、川に流されてしまいました。
「助けてくれぇ!」
対岸の敵と戦う前にこれでは先が思いやられますが、重忠は重親の身体をむんずと掴んで、力任せに投げ飛ばします。
「ふんっ!」
「あ~れ~!」
ズベシャっと着地したのが宇治川の対岸。気を取り直した重親は「大串次郎重親、徒立(かちだち。徒歩)にて敵中一番乗り!」と名乗りを上げ、敵味方からドッと笑いが起こったとか。
※ちなみに騎馬での一番乗りは、先陣争いのエピソードで有名な佐々木高綱(ささき たかつな)です。
これは『平家物語(へいけものがたり)』の伝えるエピソードですが、重親もただ投げ飛ばされただけのちゃっかり野郎ではなく、その後の戦闘で大将首を奪るなど武功を立てています。
愛馬を担いで逆落し!一ノ谷の合戦にて
木曾義仲を滅ぼした重忠たちは、都落ちした平家を追撃。寿永3年(1184年)2月7日に一ノ谷で平家の軍勢に奇襲をかけます。
「鹿が下りられるのであれば、同じ四本足の馬で下りられない筈がない!」
そんな義経の発言(暴言?)により、平家陣営の背後にそびえ立つ断崖絶壁を騎馬で駆け下った「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」。
確かに敵の不意を衝けるでしょうが、やはり断崖絶壁を賭け下るなんて自殺行為。当然の如く重忠の馬は足がすくんでしまいます。
「このままでは後れをとってしまう……仕方ない!」
と言うわけで、重忠は自分の馬を担いで断崖絶壁を下りたのでした。
完全武装の上に馬まで担いで……その怪力ぶりには驚くばかりですが、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』にその記述はありません。
それもそのはず。一ノ谷の合戦における重忠は義経の率いる搦手(からめて。別動隊)ではなく、その兄・源範頼(のりより)率いる大手の軍勢に属していました。
更には例の断崖絶壁(鵯越)についても、平家陣営から遠く離れています。わざわざ駆け下る必要性に乏しいため、逆落とし自体が義経の軍事的天才性を高めるためのフィクションと見る説が有力です。
永福寺の建立
さて、軍事的天才に驕った義経はやがて京都を追われ、奥州衣川に自害して果てました。
更には義経を匿っていた奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の戦死者を弔うため、頼朝公は永福寺(ようふくじ。鎌倉市二階堂)を建立しました。
戦いによって喪われた命を悼み、敵味方関係なくその冥福を祈るため、合戦に加わった御家人たちもその工事に参加します。
ここでも重忠は怪力ぶりを発揮して、何人がかりでようやく運べるような岩だの材木だのを軽々運び、人々を驚かせたと言います。
もうこの頃になると、みんな「さすが畠山殿だなぁ」と慣れっこになっていたことでしょう。
片腕一本で暴漢をねじ伏せる
それからしばらく歳月が流れ、幕府将軍も源頼家(よりいえ)に代替わり。
時は正治2年(1200年)2月2日、鎌倉御所の侍所で勝木七郎則宗(かつきの しちろうのりむね)が謀叛の疑いで逮捕されそうになりました。
「ふざけるな……そうやすやすとは捕まらぬぞ!」
則宗は相撲の達者。相撲と言っても現代とは違ってほとんど喧嘩のような格闘技ですから、それが脇差を抜いて暴れたとなっては一大事です。
現場は一時騒然となったものの、近くに座っていた重忠が座ったまま片腕一本で則宗をねじ伏せ、取り押さえてしまいました。
「……則宗(は、自分を捕らえようとした波多野盛通の)右手を振り抜きて、腰刀を抜き、盛通を突かんと欲するのところ、畠山次郎重忠、折節傍にあり。坐を動かずといへども、左手を捧げて、則宗が拳刀(にぎりがたな)を膊(かひな。腕)に取り加(そ)へ、これを放たず、その腕を早く折りをはんぬ。よつて魂惘然(ばうぜん)として、たやすく虜(いけど=生け捕)らるるなり……」
※『吾妻鏡』正治二1200年2月2日条
刃物を振り回す格闘家……聞いただけで勝てる気がしませんが、それを冷静に取り押さえてしまう力量。
その平生からの鍛錬が偲ばれますが、及ばずまでも見習わなければと背筋が伸びる思いですね。
終わりに
以上、「鎌倉武士の鑑」畠山重忠の怪力エピソードを紹介して来ました。
中には荒唐無稽なものもありながら、最後のエピソードについては『吾妻鏡』に記録された史実であり、武勇に優れていたことは確かなようです。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では中山大志さんが演じる予定ですが、どんな重忠ぶりを魅せてくれるのか、今から楽しみですね!
※合わせて読みたい:
※参考文献:
- 川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年10月
- 清水亮『中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流』吉川弘文館、、2018年10月
- 貫達人『人物叢書 畠山重忠』吉川弘文館、1987年3月
- 永原慶二 監修『新版 全譯 吾妻鏡』新人物往来社、平成二十三2011年11月29日
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