……皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者……
【意訳】皆さん、心を一つにお聞きなさい。これは私からの遺言です。
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月19日条
かつて右大将(源頼朝)は朝敵を滅ぼして東国に平和をもたらしました。それから数十年、皆さんの待遇はどうなりましたか。
誇り高く、豊かに暮らせるようになった恩義は、山より高く海(溟渤)より深いものではありませんか。
今ならず者の讒訴によって、まったく道理に合わない綸旨が下されてしまいました。
武士として名誉を重んじる者は、一刻も早く奸臣・藤原秀康(ふじわらの ひでやす)と三浦胤義(みうら たねよし)を討ち取り、源氏三代(源頼朝・頼家・実朝)が作り上げたこの鎌倉を守り抜くのです。
もしこの中に、それでも院(後鳥羽上皇)へ与する者がいるならば、今すぐ私を殺しなさい!
……教科書などでも紹介されるこの有名な尼御台・北条政子(ほうじょう まさこ)の演説。この言葉に胸打たれた坂東武者たちは、奮い立って鎌倉を守る戦いに実を投じるのでした。
しかし、相手は畏れ多くも朝廷(皇室)です。いくら朝廷そのものではなく君側の奸(くんそくのかん。君主の側で惑わす者)を討つ(≒ご政道をお正し申し上げる)のだとは言え、やはり怯んでしまうのは日本人の本能というもの。
積極的に上洛、鎌倉から京都へ攻め上がるべきか。それとも天然の要害である箱根あたりに立て籠もって迎え撃つべきか……議論は紛糾していました。
出撃か、迎撃か。ためらう義時に大江広元は
……晩鐘之程。於右京兆舘。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上総。下総。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也……
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月19日条
会議の場には、北条義時(ほうじょう よしとき)・北条時房(ときふさ)・北条泰時(やすとき)・大江広元(おおえ ひろもと)・三浦義村(みうら よしむら)・安達景盛(あだち かげもり)らが居並びます。
「足柄峠と箱根山の守りを固めれば、いかに官軍が多勢であっても簡単に抜くことは出来ない。ここは迎え撃つのが上策ではなかろうか」
確かに、こっちから出て行くのは損害が大きくなる可能性が高く、心理的にも「積極的に朝廷を攻める」行為は士気に悪影響です。
対して箱根・足柄で迎え撃てばこちらのコストや損害は最小限ですませられ、長期戦に持ち込めば遠征軍が不利となり、間もなく講和に持ち込めるでしょう。
なるほどもっとも合理的……それでは迎撃案を採用しようかと言う段になって、大江広元が口を開きました。
「暫く。迎撃は確かに合理的ではあるが、長く時間をかけるほど味方の士気は緩み、やがて内部から瓦解してしまいましょう。ここは鎌倉の存亡を賭けて一気に短期決戦すべきです」
時間をかければ士気が弛み、闘志が失われれば勝てる戦さも負けてしまう。そこで義時は政子に相談します。
「あなたたちは何を言っているの。戦いは先手必勝、最低限だけ軍勢を集めたらすぐにも出陣なさいな!」
……とのこと。では泰時を総大将に、急ぎ武蔵国より手勢を招集するのでした。東国各地へも後から駆けつけるよう使者を発しました。
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「いいからさっさと行け!」広元そして康信の叱咤
今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出來。令待武藏國軍勢之條。猶僻案也。於累日時者。雖武藏國衆漸廻案。定可有變心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之從竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信爲宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。關東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而發遣軍兵於京都事。尤遮幾之處。經日數之條。頗可謂懈緩。大將軍一人者先可被進發歟者。京兆云。兩議一揆。何非冥助乎。早可進發之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤澤左衛門尉淸親稻瀬河宅云々。
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月21日条
……が、泰時はまだ鎌倉にいました。
「バカモン、何をしとるんじゃっ!」
いつも冷静沈着な大江広元が、珍しく声を荒げます。泰時を留めている義時は「いや、あの、また皆さんから意見が寄せられまして……」と言い訳。
広元「ほう、その意見とは?」
義時「もう少し時間をかけて考えれば、よりよい意見が出るんじゃないかと言う……」
さぁ広元の怒るまいことか。
「バカモン、そんなの意見とは言わん!鎌倉ひいては坂東の命運を賭けた大勝負に、何をチンタラしておるか!そんな下らぬ保身を図るヤツなど放っておけ!どうせ役には立たん!よろしいか。ただちに武州(泰時)殿を出陣させよ!」
「え、でも武蔵からの軍勢がまだ……」
「いいから行け!……いいか、こういう勝負は目先の数じゃねえンだよ。武州殿は龍だ。ひとたび深淵より舞い上がれば、雲はおのずと付き従う。天下を呑み込む勢いで一気に上洛するんじゃ!」
これまで一度として戦さ場に出たことなどない文士の広元。しかし手段こそ違えど、潜り抜けた修羅場の数なら、そこいらの武士たちにも負けません。
そんな広元の気迫に圧倒されていた義時の元へ、今度は善信入道こと三善康信(みよし やすのぶ)が駆けつけました。
「……京兆(義時)殿に物申す!」
このところ老病に苦しみ、余命いくばくもない状態でしたが、鎌倉の一大事とあって気力を振り絞って訴えます。
「ゲホッ……ひとたび朝敵となり、関東の行く末を案じて出撃をためらうのも無理はない……しかしここは一刻も早く出撃せねば、時間が経つほど我らは不利となり申す……武州殿さえいればいい。たとえお一人であっても出陣されよ……ゴホッゴホッ」
広元と康信、両者の意見が一致したことで吹っ切れた義時は、ただちに泰時を出陣させたのでした。
とは言え既に夜も遅かったため、鎌倉を出てすぐ稲瀬川(現:鎌倉市長谷)のほとりで一泊。これは小さな一歩ですが、武士の世を守り抜く決戦の大きな前進となったのです。
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終わりに
いざ決戦に臨んでためらう坂東武者たちを前に、腹を括った老文士2名と尼将軍が背中を押すのは意外でした。
陰。小雨常灑。夘尅。武州進發京都。從軍十八騎也。所謂子息武藏太郎時氏。弟陸奥六郎有時。又北條五郎。尾藤左近將監〔平出弥三郎。綿貫次郎三郎相從〕。關判官代。平三郎兵衛尉。南條七郎。安東藤内左衛門尉。伊具太郎。岳村次郎兵衛尉。佐久滿太郎。葛山小次郎。勅使河原小三郎。横溝五郎。安藤左近將監。塩河中務丞。内嶋三郎等也。京兆招此輩。皆與兵具。其後。相州。前武州。駿河前司。同次郎以下進發訖。式部丞爲北陸大將軍。首途云々。
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)5月22日条
かくして鎌倉を発った泰時。その率いるメンバーは以下の通り。
- 北条時氏(ときうじ。泰時の長男、武蔵太郎)
- 北条有時(ありとき。義時の四男、陸奥六郎)
- 北条実義(さねよし。義時の六男、五郎)
- 尾藤景綱(びとう かげつな。左近将監)
- 関実忠(せき さねただ。判官代)
- 平盛綱(たいらの もりつな。三郎兵衛尉)
- 南条時員(なんじょう ときかず。七郎)
- 安東藤内(あんどう とうない。左衛門尉)
- 伊具盛重(いぐ もりしげ。太郎)
- 武村次郎(たけむら じろう。兵衛尉)
- 佐久満家盛(さくま いえもり。太郎)
- 葛山小次郎(かずらやま こじろう)
- 勅使河原則直(てしがわら のりなお。小三郎)
- 横溝資重(よこみぞ すけしげ。五郎)
- 安藤左近将監(あんどう さこんのしょうげん)
- 塩河中務丞(しおかわ なかつかさのじょう)
- 内嶋三郎(うちじま さぶろう)
以上に泰時を加えた18騎とされていますが、尾藤景綱が平山弥三郎(ひらやま やさぶろう)や綿貫次郎三郎(わたぬき じろうさぶろう)を従えていることが記されています。
本当に18人だけで出陣したのか、あるいは主だった者だけ名を連ねたのかはともかく、鎌倉の命運を担って若武者たちが出陣していったのでした。
果たして、東海道を進撃した泰時たちがどんな活躍を見せたのか、その辺りはまた改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
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