時は平安、兄弟や親族たちと熾烈な家督争いを繰り広げ、激闘の末に藤原氏の長者を勝ち取った藤原道長。
後に「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の……」と詠むほど権力の絶頂を極めた道長ですが、勝者がいれば敗者もおり、数知れぬ人々の恨みも買いました。
今回は道長を深く恨んだであろう藤原道兼(道長次兄)の未亡人・藤原繁子のエピソードを紹介したいと思います。
あの道長が震え上がった!忿怒の怨霊
……又有非常之事、甚□(可か?)怖畏、只今可参院者、女房等云々、前典侍爲邪霊被狂、與大臣拏攫、其意気忿怒不可謂云々、丞相相出示此事之間、心神無主、有甚怖畏給之気云々、……
※『権記』長保2年(1000年)12月16日の記述より。
【読み下し】また、常に非ざるのことあり、甚だ怖畏すべし。ただいま院に参ずべきは、女房たち云々。前典侍(さきのないしのすけ。藤原繁子)、邪霊に狂わさるとなり、大臣と拏攫(だかく。掴み合い)し、その意気や忿怒は言うべからざると云々。丞相、相出でてこのことを示すの間、心神主無く、甚だ怖畏ありたもうの気と云々。
……時は長保2年(1000年)12月16日。女房たちの話によると、繁子は突如として邪霊にとり憑かれ、道長に掴みかかったそうです。
繁子は憤怒の形相で、今にも道長を祟り殺さんばかりの勢い。
「何をする、やめんか!」
必死の思いで逃げ出した道長は、もう生きた心地がしなかったとか。放心状態で震えている姿に、日ごろ道長を憎んでいた者たちさえ憐れんだのでしょうか。
やがて繁子は取りおさえられ、陰陽師らによって悪霊退散の祈祷が行われたのでした。
終わりに
十六日、己未、
※『権記』長保2年(1000年)12月16日の記述全文
〇中略、皇后御産ノコトニカヽル、即忩参内之間、左府(道長)御随身伴益忠来逢□□門檉(ぎょりゅう)町辺、示云、只今可参、即参入、命云、大宰所進絹百疋可奉院(詮子)、子細見目録、
〇中略 参内、蔵人(源)永光載車後、参御前、
〇中略 此間(源)済政参入、令奏云、院御悩甚危急也、可然有験僧可令召奉給之由、左大臣令申者、此朝臣又以丞相(道長)命示□云、院御悩極重坐之内、又有非常之事、甚□(可か?)怖畏、只今可参院者、女房等云々、前典侍爲邪霊被狂、與大臣拏攫、其意気忿怒不可謂云々、丞相相出示此事之間、心神無主、有甚怖畏給之気云々、□差(源)済政遣召大僧都勝算、以(藤原)朝経爲御使被奉院、暫之丞相被参院、御悩無殊事者、大臣於殿上、被仰御祭等可令奉仕、
〇中略、御修法ノコトニカヽル、本月二十三日ノ條ニ収ム、又藤原典侍被霊気□□之體甚非常也、ム(私=筆者の藤原行成)依院重御坐、近候床席之□□御足下之女房等有驚音、顧見藤典侍捧□□手爲取懸所壓来也、其體垂髪更逆大張□□所放之多驚人耳、ム適得三宝之加護、□□付捕得彼霊左右之手、曳居之後、経時刻其□□其初所云、如関白霊、又以二條(藤原道兼)丞相之詞云々、即召□□仰
〇中略 又令勘申御祭日時、奏聞一定、御祭惣五、仰則忠□行事蔵人并陰陽師等、参御宿所、申承雑事、
〇観教ヲ加茂神社御祈使ト爲スコト及ビ大宰府貢進ノ絹ヲ奉ルコト等便宜合敍ス、
以上、怨霊にとり憑かれて道長を襲った藤原繁子のエピソードを紹介しました。
道兼はこの5年前に病死しており、藤原長者の座を勝ち取ってからすぐ亡くなったことから「七日関白」とあだ名されています。
その無念と、道長への怨みが未亡人に乗り移ったのかも知れませんね。
若いころから豪胆で知られ、怖いものなしだった道長が震え上がるほど恐ろしい憤怒の形相……NHK大河ドラマ「光る君へ」でも描かれるのでしょうか。
怖いような、見てみたいような……。
※参考文献:
- 東京大学史料編纂所『大日本史料 第二編之四』東京大学出版会、1933年5月
- 繁田信一『殴り合う貴族たち』角川ソフィア文庫、2008年11月
- 堀江宏樹ら『乙女の日本史』東京書籍、2009年8月
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