時は建久10年(1199年)1月13日。伊豆の流人から平家討伐の兵を挙げ、ついには征夷大将軍となって武士の世を切り拓いた源頼朝(みなもとの よりとも)が世を去りました。享年53歳。
しかし、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には頼朝が亡くなる前後の記述がごっそりと抜け落ちており、その死因については謎となっています。
そこで今回は頼朝の死因がなんだったのか、諸説を紹介。皆さんはどの説だと思いますか?
最も有力な「落馬説」
頼朝は馬から落ちて亡くなった……これは頼朝の死から10年以上が経った建暦2年(1212年)2月28日、第3代将軍である源実朝(さねとも)が言及しています。
……遂供養之日。爲結縁之。故將軍家渡御。及還路有御落馬。不經幾程薨給畢……
【意訳】供養を遂げた日、これと結縁のために頼朝がおいでになった。その帰り道で落馬され、ほどなく亡くなられた。
※『吾妻鏡』建暦2年(1212年)2月28日条
これを見ると、落馬によって重傷を負ったであろうことがわかります。
『吾妻鏡』に書いてあることを(北条氏による曲筆はやむなしとして)ひとまず史実であるとするなら、落馬したこと自体は間違いなさそうです。
病死説:糖尿病より、尿崩症の方が濃厚か?
続いて『猪隈関白記』にある病死説。こちらは京都で聞いた鎌倉の噂話をまとめたもの。
十八日 前右大将頼朝卿依飲水重病、去十一日出家之由世以風聞
廿日 前右大将頼朝去十三日早世云々【意訳】18日、頼朝が飲水の病い重く、さんぬる1月11日に出家したと聞いた。
※『猪隈関白記』第三巻、建久10年(1199年)1月
20日、頼朝がさんぬる1月13日に早逝したそうな。
頼朝は「飲水の病」で亡くなったとのこと。これは大量に水を飲みたがるためそう呼ばれ、現代で言うところの糖尿病や尿崩症ではないかと考えられています。
しかし糖尿病はそれ自体が死因となることはまずなく、合併症によって命を落とすことが多い病気。なので合併症の方を死因として記録するのではないでしょうか。
一方の尿崩症は水分の大量摂取により血中ナトリウム濃度が低下、治療法が発見されていなかった鎌倉時代ではそのまま死に至る可能性が高いとされます。
尿崩症説では落馬によって脳の中枢神経を損傷、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来したのでは?と考えられているものの、仮説の域を出ていません。
滅ぼした者たちの怨霊に祟られた?
『保暦間記』では頼朝によって殺された弟の源義経(よしつね)や平家政権が擁立していた安徳天皇(あんとくてんのう)の怨霊に祟られた……と言います。
……同冬大将殿相模河ノ橋供養ニ出テ還ラせ給ヒケルニ八的カ原ト云處ニテ亡サレシ源氏義廣義経行家已下ノ人々ノ怨霊現レ将軍ニ目ヲ見合ケリ是ヲ打過給ヒケルニ稲村崎ニテ海上ニ十歳計ナル童子ノ現シ給ヒテ汝ヲ此程随分ウラミツルニテコソ見付タレ我ヲハ誰トカ見ル西海ニテ沈し安徳天皇也トテ失給ヌ其後鎌倉ヘ入給ヒテ則病著給ヒしカ明年正月正治元年十三日終ニ五十三ニソ薨し玉フ是ヲ老死ト云ヘカラス偏ニ平家其外多クノ人ヲ失ヒ或親族等ヲ亡セシ霊怨因果歴然ノ責也……
【意訳】この年の冬、頼朝が相模川の橋供養に参列した帰り道。八的ヶ原(やまとがはら)というところで、かつて自分が滅ぼした源氏縁者たちの亡霊に出会った。
※『保暦間記』より
源義広(よしひろ。叔父)・源義経・源行家(ゆきいえ。叔父)……しかし頼朝は気にも留めずこれをスルー。
しかし鎌倉へ入ろうとすると、稲村ヶ崎の海上に10歳くらいの子供の亡霊が出現。曰く「そなたをずっと怨んでおったが、ついに見つけた。朕を誰と心得る……壇ノ浦に鎮められた安徳天皇なり」とのこと。
その霊はほどなく消えたが、鎌倉に帰り着いた頼朝は間もなく病を得て正治元年(1199年。厳密には頼朝の死後に改元)1月13日、53歳で亡くなった。
頼朝の死を寿命だなどと思うなかれ。これはひとえに平家をはじめ多くの人々を殺し、親類縁者を滅ぼした怨霊の祟り。その因果は歴然にして当然の責め苦なのだ……。
とのこと。
これも恐らく判官贔屓の一種で、義経を滅ぼした頼朝には相応の報いを……そんな人々の思いが伝わってくるようですね。
溺死?暗殺?「水神に領せられ」た頼朝
『承久記』では頼朝が「水神に領せられ」た……つまり魅入られて(憑りつかれて)しまったのだと言います。
建久九年戊午十二月下旬ノ頃、相模川ニ橋供養ノ有シ時、聴聞ニ詣玉テ、下向ノ時ヨリ水神ニ領セラレテ、病患頻ニ催シ、半月ニ(モ カ)臥シ、心身披崛シテ……
※『承久記(慈光寺本)』巻上より
これは史料に「相模川」「飲水の病」「(海中に没した)安徳天皇」など水を連想させるフレーズが多いことから、頼朝が溺死したことを暗示しているとか。
相模川が古くは馬入川(ばにゅうがわ)と呼ばれたことも、頼朝を乗せた馬が暴走して川へ飛び込んでしまったからでは……との説もあります。
川に落ちた頼朝が大量に水を飲んでしまったことが死につながった……しかし、こうした説には裏づけがないため、憶測にすぎません。
また頼朝が亡くなる前後の『吾妻鏡』記録がごっそり抜け落ちているのは、北条にとって都合の悪いこと≒頼朝の暗殺を隠しているためだ……という陰謀論も。
これも物語としては面白いのですが、やはり史料の裏づけがなく、推測の域に留まっています。
流石にそれは……いや、あるかも?「間違って殺されちゃった」説
これは完全に創作と思われますが、江戸時代に徳川光圀(とくがわ みつくに。水戸黄門)がまとめさせた伝承書『真俗雑録』を元昭和7年(1932年)、「頼朝の死」と銘打った歌舞伎が公演されました。
そのストーリーが何とも荒唐無稽で、頼朝が浮気相手の元へ夜這いをかけたところ、警固していた畠山重保(はたけやま しげやす。畠山重忠の子)がこれを斬り殺してしまうのです。
あまりに恥ずかしいため、誰も教えてくれない父の最期の真相を知ってしまった源頼家(よりいえ。頼朝の長男)は……見てのお楽しみ。
流石にそれはいくら何でも……いやいや、女好きの頼朝ですから、なくはないかも?むしろその方が頼朝らしいかも。そんな歴史好きの苦笑が聞こえてきそうですね。
終わりに
以上、源頼朝の死因にまつわる諸説を、あれこれ紹介してきました。
皆さんはどの説だと思いますか?そしていま話題のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どの説が採用されることでしょうか。
頼朝には悪いけど、今から楽しみにしています!
※参考文献:
- 小瀬道甫『保暦間記』元和年間(51ページ)
- 藤沢市文書館「文書館だより 文庫(ふみくら)第22号」藤沢市文書館、2011年3月31日
- 元木泰雄『源頼朝 武家政治の創始者』中公新書、2019年1月
- 矢野太郎 編『承久記』国史研究会、1917年6月(177ページ)
- 頼朝の死|歌舞伎演目案内
コメント