畠山重忠(はたけやま しげただ)と言えば鎌倉武士の鑑、ひいては坂東武者の鑑として知られています。
最近ではNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中川大志さんが熱演して下さったお陰で、その知名度は更に高まりました。
(以前は「尊敬する人は畠山重忠です!」と言っても、10人中8〜9人は「誰それ?」という反応だったものです)
天下無双の強さはもちろん、高潔な人格と坂東武者の矜恃を兼ね備えた悲劇のヒーロー・畠山重忠。
いつか彼を主人公にした大河ドラマが作られて然るべきと思っているのは、筆者だけではないはずです。
さて、どっからどう見ても武士の鑑と呼ぶに相応しい畠山重忠ですが、初めて彼を「武士の鑑」とハッキリ呼んだのは誰なのでしょうか。
当たり前のようで意外に知らない鎌倉時代の豆知識、今回調べてみたので紹介します。
生前から名高き武士ではあったものの……
……と意気込んでは見たのですが、鎌倉時代のバイブル?である『吾妻鏡』をはじめ『愚管抄』など色々当たってみても、畠山重忠を「武士の鑑」と呼んだ記録は見つかりません。
それでは軍記物語ならどうかと『平家物語』や『源平盛衰記』など読み直しても、やっぱり畠山重忠を「武士の鑑」と呼んだ者はいないようです。
ただ、数々の振る舞いから畠山重忠の素晴らしさは明らかで、『愚管抄』ではこのように評されています。
……ムツカシカリヌベキ武士庄司二郎シゲタダナド以下皆ウチテケリ。重忠ハ武士ノ方ハソノミタリテ第一ニ聞ヘキ……
【意訳】(権勢を奮う北条時政は)意に添わなかった武士・畠山庄司次郎重忠など以下みんな討ち滅ぼした。重忠は武士としての嗜み十分で(その身足りて)第一に聞こえていた。
※『愚管抄』第六巻より
坂東武者の第一人者と言えば畠山重忠……やはり重忠は当時から武士の鑑として認識されていたようです。
しかし直接「武士の鑑」とは言っていないためノーカウント。その後、手当たり次第に探してみたものの、どうにも見つかりません。そこで鎌倉市図書館のレファレンスを利用させていただきました。
レファレンスとは、司書さんに知りたいことを尋ねると、自分に代わって調べてくれるサービス。直接窓口で訊いてもいいし、ウェブサイトから質問も可能です。
調べもののプロである彼らに依頼して約3週間。ついに念願の回答をいただいたのでした。誠にありがとうございます。
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昭和時代に誕生した「武士の鑑」畠山重忠
結論としては、畠山重忠を初めて「武士の鑑」と明文化した資料は荻窪留吉『少年 武士の鑑 畠山重忠』。そのものズバリのタイトルで、発行は昭和5年(1930年)。
また、表現のゆれとして文中「武人の亀鑑(きかん。意味は同じ)」と書いたのは栗原勇『畠山重忠』。ちょっと遡って昭和2年(1927年)の発行です。
これ以前だと徳川光圀 撰『大日本史』や頼山陽『日本外史』を調べても、やはり重忠について鑑or鏡と評価した記録は見つかりません。
ちなみに「武士の鑑」という言葉そのものは古くから使われてきたものの、その対象は主に赤穂浪士(忠臣蔵)や楠木正成(くすのき まさしげ)でした。
畠山重忠については「鎌倉武士の典型」という表現が佐藤善次郎『鎌倉大観』明治35年(1902年)などで使われています。
似たような表現としては梶原景時の「鎌倉ノ本体ノ武士(理想的な鎌倉武士)」があり、こちらも遠く京都の者たちに知られていました。
……鎌倉ノ本躰ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ……
【意訳】鎌倉武士の理想だった梶原景時の一族を喪ったことは、源頼家の不覚であると人々は思っていたところ……
※『愚管抄』第六巻より
よく軍記物語などでは対照的に描かれがちな畠山重忠と梶原景時が、同じく理想的な武士として評価されているのは意外に感じられますね。
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まとめ
一、畠山重忠が「武士の鑑」と呼ばれたのは昭和時代に入ってから(暫定)
一、「武士の鑑」という表現そのものは楠木正成や赤穂浪士らに使われていた
一、しかし畠山重忠は当時から武士として高く評価されていた
一、畠山重忠は「鎌倉武士の典型」と称されることが多かった
以上、畠山重忠が「武士の鑑」と呼ばれた歴史について紹介してきました。調査にご協力下さった鎌倉市図書館の皆様、誠にありがとうございました。
その誇り高き純粋さゆえに破滅してしまった畠山重忠。しかし彼の精神は心ある者たちに受け継がれ、今も多くの人々に愛され続けています。
いつかきっと畠山重忠が大河ドラマの主人公になり、その精神が日本人に広まり受け継がれていく日を願ってやみません。
※参考文献:
- 荻窪留吉『少年 武士の鑑 畠山重忠』大同館書店、1930年5月
- 丸山二郎 校訂『愚管抄』岩波文庫、1949年11月
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