死出の旅まで付き従った信長の小姓
森乱 もり・らん
[大西利空 おおにしりく]織田家重臣・森可成の息子で、長可の弟。その聡明さと美貌を認められ、若くして織田信長の近習となる。本能寺の変の際、あるじと共に炎に包まれ、非業の最後を遂げることに。
※これまでは、森蘭丸と呼称されることが多かった。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より
織田信長(演:岡田准一)にそば近く仕えた森乱(演:大西利空)こと森長定(もり ながさだ。森成利)。
森蘭丸(らんまる)の幼名で知られていますが、本人の書状などでは森乱と署名していたようです。
元々「乱」という名前に男の子を意味する「丸」がつけられて「乱丸」、それが美少年に相応しく「蘭丸」と表記されたのでしょうか。
あるいは「森乱丸」などと呼ばれていたのが短縮されて、あだ名として森乱と呼ばれたのでしょうか(個人的にはこっちな気がします)。
ともあれ今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、森蘭丸のプロフィールを紹介。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」の予習になるでしょうか。
(以下、基本的に森蘭丸で統一します)
美と才を兼ね備え、信長に愛された蘭丸
【森氏略系図】
陸奥義隆(森冠者)-森頼隆-森頼定-森定氏-森頼氏-森光氏-森氏清-森頼俊-森頼師(よりのり)-森頼長-森頼継-森可光-森可房-森可秀-森可行-森可成-森長定(蘭丸)
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十六 清和源氏(義隆流)森
森氏は源氏の棟梁・源義朝(みなもとの よしとも。源頼朝父)に仕えた陸奥六郎義隆(むつのろくろう よしたか)の末裔と伝わります。
森長定 蘭丸 母は上におなじ。
永禄八年金山に生る。いとけなきより織田右府につかへ、つねに傍をはなれず。言語行跡頗相応して器量あるにより、命をうけて饗応等のことを奉行し、あるいは諸大名諸士出仕あるごとに、奏者をなす。天正十年美濃国岩村城をあたへられ、五万石を領す。六月二日明智光秀俄に謀叛し、右府の旅宿京師本能寺に押よす。蘭丸兄弟防ぎ戦て死す。年十八。月江宗春瑞桂院と號す。京都の阿弥陀寺に葬る。
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十六 清和源氏(義隆流)森
森蘭丸は永禄8年(1565年)、織田家に仕える森可成(よしなり)の三男として誕生しました。
長兄の森可隆(よしたか)は元亀元年(1570年)4月25日に手筒山の合戦で討死。次兄の森長一(ながかず。後に森長可)は数々の武勲を重ね、後に「鬼武蔵」と恐れられる武勲の家柄です。
そんな中、長定は幼いころから信長に仕え、いつもそば近くを離れなかったと言います。
やがて元服して森成利(なりとし)と改名しました。
俗説では信長から「信の字を与えたい」と言われたのを「恐れ多すぎるため、長の字を賜りたい」と申し出て長定(あるいは長康)になったとのことですが、当時の書状など確かな史料では、成利と書かれています。
文中「言語行跡頗相応して器量ある」とあるように大層利発だったため、各方面の接待(饗応等のことを奉行)や取次(奏者)を担ったのでした。
仕事はできるし見映えもする美少年は、織田家のマスコットとして好評を博したことでしょう。
やがて天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると、武功を立てた兄・長可の栄転に伴い、お下がりで美濃岩村城を与えられました。
また5万石の所領を与えられ、一躍大名の仲間入りです。ただし蘭丸自身は信長のそばを離れず、現場の統治は家老に任せたと言います。
しかし同年6月2日に明智光秀(演:酒向芳)が謀叛を起こし、信長ともども襲撃されてしまいました。
折悪しく隙だらけのところを狙われた信長主従は、抵抗もむなしく討死してしまったのです。
享年18歳、弟の森坊丸(ぼうまる。森長隆17歳)・森力丸(りきまる。森長氏16歳)ともども、壮絶な最期を遂げたといいます。
終わりに
いわゆる「本能寺の変」で討死した森蘭丸兄弟は京都の阿弥陀寺に葬られました。
後に兄の長可が建立した美濃の可成寺にも墓が建てられ、今も多くの人が参詣しています。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、大西利空がどんな「森乱」を演じてくれるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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