鎮西在地の武者
文屋 忠光(ふんやのただみつ)
守谷日和(もりやびより)鎮西在地の武者。刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)の際に軍功を立てる。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。
劇中では賊徒の首級を藤原隆家(竜星涼)に献上し、視聴者に強烈な印象を与えた文屋忠光とは何者だったのでしょうか。
今回は刀伊の入寇で活躍した文屋忠光について、紹介したいと思います。
文屋氏の出自は?
文屋忠光は生没年不詳、筑前国怡土郡(いとぐん/いとのこおり)に土着する豪族でした。
文屋氏は天武天皇の孫(長皇子の子)である智努王(ちぬのきみ)と大市王(おおちのきみ)が臣籍降下したほか、長谷於保(はせの おほ)が賜姓されたなどの末裔です。
詳しい系図は不明ながら、大宰府で傔杖(けんじょう。地方の護衛武官)を務めていた文屋佐親(すけちか)や、寛平の韓寇(寛平5~6・893~894年)で活躍した文屋善友(よしとも)などとの関係が考えられています。
賊徒を「頗有殺獲」……。
刀伊の入寇に際しては、藤原政則(まさのり。隆家の子説あり)らと共に防戦し、賊徒を撃退しました。
……寛仁三年。刀伊賊寇対馬壱岐。攻殺壱岐守理忠。進入筑前。政則及郡人文室忠光等拒之。頗有殺獲。賊又至那珂郡。隆家再遣大蔵種材猛険要。賊舩奄至。欲焼衛所。府兵奮戦破之。賊退于能古島。又寇志摩郡舩越津。隆家政則豫遣兵邀撃。賊又逃去。隆家遣政則平致行種材等。発舩三十餘艘追撃走之。……
※菊池容斎『前賢故実』巻之六 後一條天皇朝九名 藤原政則
文中の「政則及郡人文室忠光等拒之(まさのりおよびこおりのひと・ふんやのただみつらこれをこばむ)」とあるのがそれですね。
※文屋ではなく文室とありますが、読みは同じ「ふんや」になります。
郡人とは特に位階や官職を受けていない在地の武者(いわゆる住人)を指す言葉です。
さらに「頗有殺獲(すこぶるころし、とらうるあり)」とあるところから、みんなで力を合わせ、大いに武功を立てたようです。
一説には刀伊の賊徒を数十人も討ち取ったとも言われます。
名前が出ているのはここだけですが、その他の戦場でも「等」に含まれていたかも知れません。
※なお菊池容斎『前賢故実』は明治時代に描かれた歴史肖像画集ですが、それぞれの逸話にも何かしらの裏付けがあったのでしょう。
劇中では描かれなかった、敵の首級を奪う瞬間も観たかったですね。
「刀伊の入寇」後は?
かくして刀伊の入寇で軍功を立てた文屋忠光が、その後どうなったのかはよく分かっていません。
恐らくは相応の恩賞に与り、現地に生涯を送ったものと考えられます。
NHK大河ドラマ「光る君へ」での登場は恐らくこれっきりと思われますが、短くてもインパクトのある場面は視聴者の心に残ったのではないでしょうか。
刀伊の入寇では他にも多くの武者たちが活躍していたので、改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
- 関幸彦『刀伊の入寇 最大の対外危機』中央公論新社、2021年8月
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