後鳥羽上皇に仕える中世きっての名僧。のちに『愚管抄』を著す。
※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより。
こちらは慈円(演:山寺宏一)の人物紹介ですが、中世きっての名僧とは実に大きく出ましたね。
中世の定義には諸説ありますが、概ね平安時代(平安遷都794年)から戦国時代(〜1603年、江戸開府)まで約800年とします。
約800年の歴史において慈円が(一番であるかはともかく)トップクラスの名僧とされる理由は何なのか、今回はその生涯をたどってみましょう。
修行を積んで天台座主に
慈円は久寿2年(1155年)4月15日生〜嘉禄元年(1225年)9月25日没。大河ドラマ開始時点(安元元・1175年)で21歳、終了時点(元仁元・1224年。北条義時の死亡)では70歳となります。
父は藤原忠通(ふじわらの ただみち)、母は藤原仲光女(なかみつのむすめ)。九条兼実(演:ココリコ田中直樹)は実の兄です。
幼少期から出家して修行を積み、建久3年(1192年)に38歳で天台宗のトップである天台座主(てんだいざす。比叡山延暦寺の住職)に就任。
以来4度にわたって天台座主を務めたことから、高い功徳と人望の厚さが分かります。
身分が低くても一芸に秀でた者を積極的に取り立てたり、教義の異なる念仏僧を批判はしても弾圧を否定したりなど、度量の広さも備えていました。
天台座主として精力的な宗教活動や兄・兼実の政治的後見、そして公武協調(朝廷と幕府の橋渡し)などに貢献します。
やがて後鳥羽上皇(演:尾上松也)が挙兵=北条義時(演:小栗旬)討伐を計画するとこれに反対。西園寺公経(さいおんじ きんつね)と共に諌めました。
スポンサーリンク
四条天皇を呪い殺した?
そして承久の乱(承久3・1221年)に敗れた後鳥羽上皇が隠岐へ流され、仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう。後鳥羽上皇の孫、第85代)まで廃されるとこれに抗議。鎌倉幕府に対して復位を求めています。
仲恭天皇は慈円にとって曾孫甥に当たるため、別の皇統に取って代わられることを恐れたのでしょう。
しかし願いは聞き入れられず、皇位は後堀河天皇(ごほりかわてんのう。第86代。第80代・高倉天皇の孫)が継承することに。慈円の無念が忍ばれます。
無念の中に世を去った慈円。しかしタダでは死ななかったようで、四条天皇(しじょうてんのう。第87代)が仁治3年(1242年)に12歳の幼さで崩御したのは慈円の呪いと噂されました。
ただし「人を呪わば穴二つ」とはよく言ったもので、せっかく鎌倉殿となった藤原頼経(こちらも慈円にとって曾孫甥)の系統も2代で絶えてしまうのでした。
結局のところ、慈円は名僧だった?
おほけなく うきよのたみに おほふかな
※『小倉百人一首』95番、前大僧正慈円
わがたつそまに すみぞめのそで
【意訳】大袈裟かも知れないが、俗世に生き苦しむ民を、抱きしめてあげよう。天台座主となった(比叡山≒杣に住み初めた)私が、墨染の袖で。
※墨染とは僧衣を墨で黒く染めたことから、僧衣を指します。
人々の苦しみを救うために功徳を積み、天台座主にまで上り詰めた。そんな慈円の意気込みが感じられる一首です。
人々を救いたい志は尊いもの。「中世きって」かはともかく、間違いなく名僧の一人には挙げられるでしょう。
(四条天皇を呪い殺すのはどうなんだと言われそうですね。しかし仮に噂が事実として、ベクトルはともかくその法力は確かだったようです)
スポンサーリンク
終わりに
また慈円が残した日記『愚管抄(ぐかんしょう)』は、平安末期から鎌倉初期にかけて記された貴重な史料として現代に伝わります。
(※愚管抄、とは「愚見をまとめたもの」という程度の意味)
兄・兼実の日記『玉葉』ともども、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が伝えていない当時の様子を別視点から補完しているので、ぜひおすすめです。
果たして大河ドラマではどのような活躍を魅せてくれるのか、最終回まで残り少ない山寺宏一さんの好演を見届けていきましょう!
※参考文献:
- 多賀宗隼 『人物叢書 慈円』吉川弘文館、1989年4月
スポンサーリンク
コメント