「お米を運ぶだけじゃ」
令和5年(2023年)1月8日(日)から放送開始の大河ドラマ「どうする家康」。その予告編に、そんなセリフがありました。
恐らく桶狭間の前哨戦である「大高兵粮入れ」エピソードと思われますが、松本潤が演じる徳川家康(とくがわ いえやす)青年の発言に違和感を覚えます。
お米を運ぶだけだから(最前線で敵と戦うわけではないから)心配は要らない……恐らくそんなニュアンスなのでしょう。しかし、お米を運ぶ任務って、口で言うほど簡単じゃないのです。
なぜかって?今回はその辺りについてちょっと考えて、大河ドラマ「どうする家康」のイメージトレーニングをしてみたいと思います。
家康青年、18歳の快挙
大高兵粮入れとは永禄3年(1560年)、家康が大高城(おおだかじょう。現:愛知県名古屋市)を守備していた鵜殿長持(うどの ながもち)の元へお米(兵糧)を届けたエピソードです。
こう聞く限りでは簡単に思えますが、このとき大高城は敵方(織田信長)の軍勢に包囲されています。ただ突入するだけでも大変なのに、大切な食糧を守りながらとなれば難易度は格段に跳ね上がるはず。
もちろん大軍で護衛しながら行ければいいのですが、それが出来るなら最初から苦労しません。でも、家康はやってのけました。だからこそ賞賛されたのです。
……まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが。此城敵地にせまり軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなし。志かるに 君はわづかに十八歳にましヽヽけるが。かひゞヽしくうけがひたまひ。敵軍の中ををしわけ難なく小荷駄を城内へはこび入しめられければ。敵も味方もこれをみて。天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて。今の世まで大高兵粮入とて名誉のことに申ならはしける……
※「君(徳川家康)」の前にある空白は、名前(または代名詞)のすぐ上に文字がくるのを不敬としたための配慮(原文ママ)です。
※『東照宮御實紀 巻二 弘治三年-永禄二年』大高兵粮入より
【意訳】大高城は一族(今川義元の姉妹聟)である鵜殿長持(長助)に守らせていたところ、織田の軍勢が包囲したため補給路を断たれてしまった。
救援を出すべく軍議を行なったが、犠牲の大きな任務ゆえ請負(うけが)う者は誰もいない。この時、18歳の家康が名乗り出て、敵の大軍を押し分けで兵糧を城内へと運び入れたのであった。
敵も味方もその見事さに感心しない者はいなかったという。これによって家康少年は頭角を現し、後世「大高兵粮入」と伝えられたのである。
……果たしてどんな策略を用いたのかと思いきや、文中「敵軍の中ををしわけ(押し分け)」とあるように、真っ向から突っ込んで行ったようです。
あるいは「ちょいとごめんよ~っ」という具合に、敵から警戒されないよう、何食わぬ顔で気づけば入城してしまったのでしょうか。もし後者なら、凄まじく豪胆なタヌキぶりですね。
果たして松本潤の演じる家康青年は、どんな妙案をもって任務を成功させるのでしょうか(さすがに史実に反して失敗はしないと思いますが……)。
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終わりに
昔から「♪輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々蜻蛉も鳥の内(※)」なんて言うように、とかく後方支援は最前線で戦う者に比べて低く見られがち。しかし後方支援をおろそかにして「腹が減っては戦さができぬ」のもまた事実。
(※)輜重(しちょう)とは兵糧や弾薬など荷物。輸卒(ゆそつ)とはそれを運ぶ兵隊のこと。前線で戦わない彼らが兵隊だと言うなら、チョウチョやトンボだって鳥の仲間だ……と彼らを侮った言葉です。
前線も後方も、さまざまな任務経験を通して「海道一の弓取り(東海道きっての戦上手)」に成長していく家康の姿を、是非とも見届けていきたいですね。
※参考文献:
- 成島司直ら編『徳川実紀 第一編』経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション
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