人質の身分から天下人に上り詰めた徳川家康(とくがわ いえやす)。しかしいかに彼が偉大であろうと、一人で天下は獲れません。
とうぜん多くの家臣たちが家康の覇業を支えたのですが、中でも特に優れた者たちを選んで徳川十六神将(~じゅうろくしんしょう)と呼びました。
十六という数字の根拠は仏法を守護する四天王を二乗した(4×4=16)からとか、有名な徳川四天王(酒井忠次・榊原康政・井伊直政・本多忠勝)に十二神将を当てたためとも言われます。
今回はそんな徳川十六神将を一気に紹介。NHK大河ドラマ「どうする家康」には全員登場してくれるでしょうか。
酒井忠次(さかい ただつぐ) ※徳川四天王
生没:大永7年(1527年)生~慶長元年(1596年)没
通称:小五郎、左衛門尉
徳川四天王の筆頭とされる功臣。文武に優れ、家康の主な合戦にはほとんど参加しています。ただし嫡男・松平信康(のぶやす)が謀叛の容疑をかけられた際、十分に弁護できなかったため家康に嫌われたとの説も。宴会芸「海老すくい踊り」が得意で偉ぶらずみんなを楽しませようとする気配りの人でもありました。
榊原康政(さかきばら やすまさ) ※徳川四天王
生没:天文17年(1548年)生~慶長11年(1606年)没
通称:小平太
陪臣(ばいしん。主君の直参でない、家臣の家臣)でありながら、家康に見出されて側近に。武勇はもちろん軍勢の統率にすぐれ、一方で老中を務めるなど政治能力も兼ね備えていました。しかし権力に固執せず、次世代の能臣が台頭すると自ら一線を離れる潔さを魅せています。
井伊直政(いい なおまさ) ※徳川四天王
生没:永禄4年(1561年)生~慶長7年(1602年)没
通称:赤鬼、人斬り兵部
幼くして父を喪い、義理の伯母・井伊直虎(なおとら)に育てられました。武田家の滅亡後にその精鋭部隊「赤備」を率い、苛烈な指揮をとったことから「赤鬼」と恐れられます。自分にも家臣にも厳しく、しばしば手討にしたため「人斬り兵部」とも呼ばれました。
本多忠勝(ほんだ ただかつ) ※徳川四天王
天文17年(1548年)生~慶長15年(1610年)没
通称:平八郎
幼くして父を喪い、叔父の本多忠真(ただざね)に鍛えられたそうです。武勇に優れ、穂先にとまったトンボが両断されるほど鋭い名槍「蜻蛉切」を奮って活躍。生涯57度の戦場に出て一度も傷を負わなかった強運と実力の持ち主で「家康に 過ぎたるものが 二つあり 唐の頭(兜)に本多平八」と称賛されたと言います。
米津常春(よねきづ つねはる)
生没:大永4年(1524年)生~慶長17年(1612年)没
通称:藤蔵、三十郎
家康の父・松平広忠(ひろただ)の代から奉公。松平家が今川義元(いまがわ よしもと)に従属していた頃からしばしば先鋒を務め、桶狭間の合戦や三河一向一揆の鎮圧にも尽力しました。
高木清秀(たかぎ きよひで)
生没:大永6年(1526年)生~慶長15年(1610年)没
通称:善次郎、主水助
元は水野信元(みずの のぶもと)に仕え、数々の合戦で武功を立てます。信元が処刑された後は織田家臣・佐久間信盛(さくま のぶもり)に仕え、家康の元へ来たのは天正10年(1582年)以降。比較的新参者ですが、更に武功を重ねました。生涯に45ヶ所もの傷を受けたと言い、その勇猛さと強運が伝わります。
内藤正成(ないとう まさなり)
生没:享禄元年(1528年)生~慶長7年(1602年)没
通称:甚一郎、四郎右衛門
松平広忠の代から仕え、家康初陣から数々の合戦に武勇を奮いました。後に家康が浜松から関東に移封されるとそれまでの七百石から五千石に加増されます。老いて病に倒れた際、徳川秀忠(ひでただ)が直々に医師を遣わしてくれたと言いますから、よほど敬愛されていたのでしょう。
大久保忠世(おおくぼ ただよ)
生没:天文元年(1532年)生~文禄3年(1594年)没
通称:七郎右衛門
大久保家は松平清康(きよやす。家康祖父)の代から仕える忠臣。頑固さと粘り強さが身上で、三方ヶ原で惨敗した時も一矢報いたり、長篠の合戦で敵を追撃して「膏薬侍」と評されたりなど大活躍しました。また倹約家でもあり、有事に備えて七日に一度は断食して金を貯める習慣を生涯続けたそうです。
大久保忠佐(ただすけ)
生没:天文6年(1537年)生~慶長18年(1613年)没
通称:治右衛門
忠世の弟で、兄と共に広忠の代から忠義を尽くします。一言坂の合戦で殿軍を務めたほか、長篠・小牧長久手などでも武功を立てました。数々の合戦に活躍したものの、生涯にわたり一度も傷を負わなかったそうです。
蜂屋貞次(はちや さだつぐ)
生没:天文8年(1539年)生~永禄7年(1564年)没
通称:半之丞
桶狭間の合戦に従軍し、以来数々の武功を挙げました。が、三河一向一揆が勃発すると信仰上の理由で一揆勢に寝返ってしまいます。後に赦されて帰参し、吉田城攻めで本多忠勝と先陣を争いました。しかしこの戦いで銃撃を受け、その傷が元で亡くなりました。
植村家存(うえむら いえさだ)
生没:天文10年(1541年)生~天正5年(1577年)没
通称:新六郎
9歳の時から竹千代(元康)に仕え、その剛直な忠義を織田信長に賞賛され、褒美に太刀を授かっています。やがて旗本先手役(親衛隊)に編入されて勇名を馳せ、かの武田信玄に「一世の豪勇」と評されたそうです。また信長と上杉謙信の同盟を仲介するなど外交面にも才能を発揮しました。
鳥居元忠(とりい もとただ)
生没:天文8年(1539年)生~慶長5年(1600年)没
通称:彦衛門尉
鳥居忠吉の三男で、竹千代の人質時代から忠義を尽くしてきました。姉川・三方ヶ原・長篠など数々の合戦で武勇を奮い、篤く信頼を得ます。後に関ヶ原の合戦で伏見城を預かり、敵に完全包囲されながら13日間にわたり激闘を繰り広げました。その壮絶な最期は「三河武士の鑑」と称賛されたほどです。
鳥居忠広(ただひろ)
生没:生年不詳~元亀3年(1573年)没
通称:四郎右衛門
元忠の弟で、武勇に優れていたものの、三河一向一揆で寝返ってしまいます。その後許されて帰参、より一層忠義を尽くしました。しかし三方ヶ原の合戦で兵力差を考慮した籠城策を進言すると、侮辱を受けて同僚と喧嘩してしまいます。果たして惨敗を喫すると殿軍を務め、壮絶な最期を遂げました。
渡辺守綱(わたなべ もりつな)
生没:天文11年(1542年)生~元和6年(1620年)没
通称:半蔵、忠右衛門
槍の名手で「槍半蔵」の二つ名をとり、服部正成(服部半蔵)の「鬼半蔵」と対に呼ばれました。信仰上の理由から三河一向一揆で寝返ってしまいますが、敗れた後に赦されて帰参。以後は姉川、長篠、小牧・長久手など数々の合戦で武功を立てました。
平岩親吉(ひらいわ ちかよし)
生没:天文11年(1542年)生~慶長16年(1612年)没
通称:七之助
人質時代から竹千代に仕え、忠義に篤く松平信康(家康嫡男)の補佐役を任されます。信康が切腹を命じられた時は自分が身代わりになろうと申し出るほどでした(認められず、信康は処刑)。信康を守れなかった責任を感じて謹慎するも許され、その後も忠義を全うします。
服部正成(はっとり まさしげ/まさなり)
生没:天文11年(1542年)生~慶長元年(1597年)没
通称:半蔵、半三
服部半蔵と言えば忍者の代名詞ながら、自身は忍者ではなく武士。伊賀の忍びを率いて数々の武功を立てています。もちろん武士としても数々の戦場で一番槍を果たすなど「戦さも忍びもお任せ」な逸材だったようです。その苛烈さから「鬼半蔵」と異名をとったものの、切腹する信康の介錯だけは出来ませんでした。
松平康忠(まつだいら やすただ)
生没:天文15年(1546年)~元和4年(1618年)没
通称:源七郎、甚太郎
家康の従弟で、異母妹の矢田姫を娶っているため義弟でもあります。酒井忠次に従って姉川・長篠など歴戦、本能寺の変で三河へ逃げ帰る家康に同行(神君伊賀越え)するなど苦楽を共にしました。
松平家忠(いえただ)
生没:弘治元年(1555年)生~慶長5年(1600年)没
通称:又八郎
松平の分家(深溝松平家)として、元康に仕えました。酒井忠次のもとで多くの合戦に参加、城攻めに際して付城(前線基地)を築くなど土木に長けていたようです。鳥居元忠と共に伏見城で討死。彼の日記(家忠日記)は戦国時代における貴重な史料として伝わっています。
終わりに
以上、家康を支えた徳川十六神将について駆け足で紹介してきました。数えてみると16人を超えていますが、文献や絵巻などにより(四天王は固定としても)メンバーの入れ替わりがあるためです。
さらに12将を加えた徳川二十八神将や、武田二十四将にあやかったか徳川二十四将などもいるらしく、徳川家臣団の高い人気がわかります。
【徳川二十四将・徳川二十八神将にノミネートされる家臣たち】
- 安藤直次(あんどう なおつぐ)
- 伊奈忠俊(いな ただとし)
- 伊奈忠政(ただまさ)
- 岡部長盛(おかべ ながもり)
- 大久保忠教(おおくぼ ただたか)
- 大須賀康高(おおすが やすたか)
- 奥平信昌(おくだいら のぶまさ)
- 酒井正親(さかい まさちか)
- 菅沼定盈(すがぬま さだみつ)
- 内藤家長(ないとう いえなが)
- 内藤信成(ないとう のぶなり)
- 本多康高(ほんだ やすたか)
- 松平伊忠(まつだいら これただ)
- 水野勝成(みずの かつなり)
※既出の者は除く。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」にはこの内何人が登場するか、登場するならキャスティングは誰なのか、予想してみるのも楽しそうですね!
※参考文献:
- 煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月
- 小川雄ら編著『図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の“天下人”』戎光祥出版、2022年10月
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